2012年12月18日火曜日

十二月の落語講座

明日12月19日(水)、明後日12月20日(木)は
背中家腰楽の落語講座がございます。

今年最後のお話は「人情噺」。
毎度お馴染みになりましたが、
古典落語が初めての方にもそうでない方にも、
一層お楽しみ頂くための「プレゼンテーション」もご期待下さい。

12月19日(水)は様々な講座を開催しているコチラにて、

場所  暮らしの学校 (JR岡崎駅徒歩5分)

時間  12月19日(火) 10:30~11:30

電話  0120-511-533

WEB  暮らしの学校(講座ページ)


12月20日(木)は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて


場所  喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩1分)

日時  12月20日(木) 20:00より 

電話  050-3598-6745

WEB  http://ameblo.jp/slothcoffee/

乞うご期待!

2012年11月17日土曜日

十一月の落語講座

来週11月21日(水)は月に一度のお楽しみ、
背中家腰楽の落語講座がございます。

今回は「火事」にまつわる寒い季節のお話。
江戸という街は随分と大火に見舞われたそうでして。
街が焼き払われては建て直す、を繰り返すたびに大きくなっていったそうでございます。

江戸ではいろは四十八組の消防の組織をはじめとして、
様々な防火対策というものが講じられていました。
町内から人を出して夜歩いて回る「火の廻り」なんてのもあった。

私の小さい頃はまだ「火の用心、マッチ一本火事の元」
なんて火の廻りをしている方がいらっしゃいました。

調子が出ないといけないので、喉を痛めないようにしませんと…

午前中は様々な講座を開催しているコチラにて、

場所  暮らしの学校 (JR岡崎駅徒歩5分)

時間  11月21日(水) 10:30~11:30

電話  0120-511-533

WEB  暮らしの学校(講座ページ)


夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて


場所  喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩1分)

日時  11月21日(水) 20:00より 

電話  050-3598-6745

WEB  http://ameblo.jp/slothcoffee/

乞うご期待!

2012年10月15日月曜日

十月の落語講座

明後日10月17日(水)は月に一度のお楽しみ、
背中家腰楽の落語講座がございます。

落語には飲む、搏つ、買うといった遊びにまつわる話もよくございまして、
中でも今回のお話は「廓ばなし」というジャンルにあたります。
いわゆる「艶話」ではございませんので、女性の方もご安心ください。

午前中は様々な講座を開催しているコチラにて、

場所  暮らしの学校 (JR岡崎駅徒歩5分)

時間  10月17日(水) 10:30~11:30

電話  0120-511-533

WEB  暮らしの学校(講座ページ)


夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて


場所  喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩1分)

日時  10月17日(水) 20:00より 

電話  050-3598-6745

WEB  http://ameblo.jp/slothcoffee/

乞うご期待!

2012年9月17日月曜日

九月の落語講座のお知らせ


明後日9月19日(水)は月に一度のお楽しみ、
背中家腰楽の落語講座がございます。

人の機嫌を取る商売として昔は「太鼓持ち」というのがございました。
落語にはこの太鼓持ちが出てくるお話がいくつかあるのですが、
今回はその中から私が一番好きな話をひとつ。

午前中は様々な講座を開催しているコチラにて、

場所  暮らしの学校 (JR岡崎駅徒歩5分)

時間  9月19日(水) 10:30~11:30

電話  0120-511-533

WEB  暮らしの学校(講座ページ)


夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて


場所  喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩1分)

日時  9月19日(水) 20:00より 

電話  050-3598-6745

WEB  http://ameblo.jp/slothcoffee/

乞うご期待!

2012年9月4日火曜日

落語「死神」

先週は落語講座にいっぱいのお運びありがとうございました。

今回の演目は「船徳」でしたが、
今日は前回の「死神」についてのお話。

死神、なんて落語らしからぬタイトルですが、
このお話、元ネタはなんとグリム童話。
明治の大名人「三遊亭圓朝」
「死神の名付け親」という物語をもとにして作ったとされています。


「死神の名付け親」はこんな話。

『あるところに貧乏な男がおりまして、その家に13人目の子供が産まれました。
(…実に無計画ですな)
とにかく名付け親をさがさなっくちゃあならないと、
男が表に出て最初に会ったのが神様。

名付け親になってやろうと言う神様に対して男は
「おまえさんは金持ちには物を与えて、貧乏人は飢えさせておくから御免だ」
と言って断ります。

次に会ったのは悪魔でした。しかし、
「おまえさんは人を騙したり、そそのかしたりするからいけない」
と断ります。

最後にやってきたのが死神でした。
「おまえさんは金持ちも貧乏人も区別せず平等に連れて行くから、おまえさんに頼もう」
と死神に子供の名付け親になってもらうのですが…』


落語「死神」はこの子供が大きくなってからの場面から始まります。

話の面白さゆえ、人気の高い落語ですが、
笑いとゾクッとくる怖さを同居させるバランスが難しい。

落語というといわゆる笑い話というイメージが強いかと思いますが、
怪談話や人情噺など色んな話があります。
また演者によって同じ話でも全く違った印象になったり、
観客の世代や価値観によって、笑いどころや楽しみ方が違ってきます。

笑うもよし、悲哀を感じるもよし、江戸の風情に思いを馳せるもよし、
哲学的な要素を含む話に深く考えてみるのもよし、
「楽しみ方」の幅の広さが落語の身上でございまして。

なんにせよ落語はお客さんに「楽しんで頂ける」のが一番です。

落語講座では解説も含めてちょいと小難しい感じに
なることもありますが…(スミマセン)

そんな楽しめる落語の場をこれからも
聞きに来てくださる皆様と一緒に作っていければと思います。

2012年8月26日日曜日

8月の講座のお知らせ

今週8月29日(水)は月に一度のお楽しみ、背中家腰楽の落語講座がございます。
毎月第三水曜日に行っておりますが、お盆休みということで日程が変わっております。
告知が遅れまして申し訳ございません。来月より通常の日程に戻ります。

今回は暑い時にピッタリの涼しくなるお話です。
先月はちょっとゾクゾクッと来るお話でしたが、また違った涼しさを感じて頂ければと思います。
本来もう秋の落語をやる時期ですが、まだまだ残暑も厳しいということで…


午前中は様々な講座を開催しているコチラにて、

場所  暮らしの学校 (JR岡崎駅徒歩5分)

時間  8月29日(水) 10:30~11:30

電話  0120-511-533

WEB  暮らしの学校(講座ページ)


夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて


場所  喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩1分)

日時  8月29日(水) 20:00より 

電話  050-3598-6745

WEB  http://ameblo.jp/slothcoffee/

乞うご期待!

2012年8月7日火曜日

不思議な「パワー」はあるのか

「目に見えない不思議なパワーって本当にあるんですか?」
よく患者さんに質問されます。

代替医療には、「目に見えない力」を提示しているものがあります。
○○スピリチュアル、△△パワー、◇◇波動、…などなど。

目に見えないものを「ある」と言っているわけですから、
なんだか怪しい!と思う方もいらっしゃるでしょう。
しかし、不思議なパワーが「絶対にない」と証明することもできません。
現代科学では分析できないエネルギーがそこにはあるのかもしれません。

しかし今までにいわゆる「パワー」の存在が物理的に証明された事はありません。
少なくとも科学的な検証下では、髪の毛一本すら持ち上げたことはないのです。
これからもパワーが目に見える形で証明されることはおそらくないでしょう

いずれにせよ「ある」と認識している人たちは、パワーを感覚で認識しています

一つはっきりしていることは、「不思議な力」の存在が信じられている文化圏において、
「不思議な力」は単なる幻想ではないということです。






「笑いと治癒力」 (ノーマン・カズンズ 岩波書店)
に出てくるアフリカの呪術師は事実として村人を治している。







実際に自分を治してくれる(自分の治す力を引き出してくれる)
やり方が「目に見えないパワー」である人に、
科学的でないから信じるのをやめろと言うのは、合理性を欠いています。
「そういう力を信じたい」、という文化や社会があるのは事実であり、
そのパワーを「実感」している人がいるのですから。

この「実感」というもの自体は存在するのですから、
少なくともその人の意識の中にだけは「パワーと呼べるもの」は存在するのです。
それは科学的に説明するならば「脳のパワー」ということかもしれません。

「パワーを使います」という宣言は、それ自体が
相手の思考や感情にバイアスを与えます。
本当にパワーが存在する、しないに関わらず、
神秘的な期待感の中で、「パワーが送られている」、「何だか体があたたかい」と感じれば、
安心感、幸福感、リラックスといった影響が現れ、
それが症状の改善につながる可能性はあります。

「パワーなど絶対に信じない」
という否定的な感情を持って、体をこわばらせていたのならば、
何の変化もないかもしれません。

いずれにせよ結果として元気になることがあるのならば、
それを一方的に間違いだとすることはできません。

しかし、「パワー」はその神秘性ゆえに諸刃の剣になることもあります。
もしもパワーを絶対的なものとして受け入れてしまった場合、
良くならない時に待っているのは、深い絶望かもしれませんし、
良くなった時でも依存してしまう可能性があります。

「パワーでよくなる」というやり方が、他の治療よりも優先すべきものなのか、
費用対効果も含めて、その人の人生にとって適切な手段であるのかどうか。
様々な側面から考えなければ、有益とはいえないものになるかもしれません。

「笑いと治癒力」に出てくるアフリカの呪術師は、自分が治せる者、病院に行くべき者
をきちんと理解して振り分けていました。呪術のパワーが実際にあるかないか以前に、
その呪術の「適用範囲」を知り、どのように役立てるかという視点を持っています。

まあ、もしも私が仮に「パワー」を持っていて、それで治せるとしたら、
そのことを宣言せずに黙って使うでしょうね。

誰に対して、どのように用いるべきなのか。

これは他の代替医療でもそうですし、
また通常医療においても念頭に置くべき大切な事だと思います。

2012年7月29日日曜日

8月5日は瀬戸市にて落語会を行います

来週の日曜日8月5日(日)14:00~
瀬戸市の花屋さん「はーばす」(ホームページ)にて
私「背中家腰楽」の落語会が開催されます。

この一年岡崎市を中心に三河地方のみで
やって参りましたが、今回はちょいと遠征でございます。
以前に落語を見てくださった方からお声をかけて
頂き、今回の運びとなりました。

つきましては、当日「杉田整体院」を
11:30~17:00の間、お休みとさせて頂きます。
(当該時間でも予約の電話は受け付けております。)

2012年7月12日木曜日

7月の落語講座のお知らせ

来週7月18日(水)は月に一度のお楽しみ、
背中家腰楽の落語講座がございます。

今回のお話は古典落語なんですが、なんと元ネタは西洋の物語。
あるコワーイ「神様」が登場します。果たしてどんな神様が出て参りますか…

午前中はこちらにて、

場所  暮らしの学校

時間  7月18日(水) 10:30~11:30

電話  0120-511-533

WEB  暮らしの学校(講座ページ)


夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて


場所  喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩分)

日時  7月18日(水) 20:00より 

電話  050-3598-6745

WEB  http://ameblo.jp/slothcoffee/

乞うご期待!

2012年7月10日火曜日

唐茄子屋政談の結末について

前回からの続きものでございます。

このお話の終盤の演じ方は落語家によって変わることがあります。

『貧乏長屋で出会ったおかみさん、
元武士で今は行商をしている夫からの送金が途絶え、
必死に働いたが体を壊し、二人の子供に三日も何も食べさせていないという。
あまりの困窮ぶりを目の当たりにした若旦那は
「何かあったかいもんでも食べてくださいな」と
商売の売り上げをそっくり渡して帰ってきます。』

『売り上げをやってしまったという若旦那を疑う叔父さんは、
その話がウソかホントか確かめようじゃねえかと、
貧乏長屋のおかみさんを訪ねると、
なんとおかみさんは首をくくってしまったという。』

『おかみさんが金を貰うわけにはいかないと、
若旦那を追っかけて出たところで大家にバッタリ出会ってしまい、
家賃がたまっていることを理由に、その金を取り上げられてしまったという。
その日の夕方隣人が訪ねてみると、おかみさんが梁から…
そして今医者に手当てをしてもらっているところだという。
その話を聞いた若旦那は一目散に大家のところへ…』

というくだりなのですが、
この「おかみさん」が助かる場合と助からない場合があります。
ちなみに志ん朝師匠は「助かるバージョン」、もちろん私もそうです。

客を泣かせるために
おかみさんに死んでもらうという人もいますが、
それは物語を壊すだけだと思うんです。


なぜなら、おかみさんの自殺(未遂)の原因は実は若旦那にあるからです。

前回「情けはひとのためならず」という話をしました。
これと似た言葉で「恩送り」という言葉があります。
立場や身分の違いから生きてる間に「恩返し」ができないこともある。
だから受けた恩は「返す」のではなく、他の誰かに「送る」と。

若旦那は、気のいい下町の住人に恩を受け、
「ああ親切なひとだなあ」で済む町人。恩をただで送られてもOK。

しかしおかみさんは武士の妻。
ただ金を恵んでもらうことは大変な「恥」なのです。
だから必死で金を返そうとした。
そしてその金を大家に取られた事で返せなくなってしまった。
そもそも「恥」という概念に縛られ、子供が飢えても「助けて」と言えなかったおかみさん。
さらに恥を与えて追い詰めたのは、他でもない若旦那なんです。

まあそれ以外の理由もあるでしょうが、これは原因にはなっている。

もちろん大家は因業に違いないし責任はある。
しかし若旦那がタダで金をやらなければこんなことにはならなかった。
『井戸の茶碗』じゃないけど、湯のみでも代わりに貰っとけばよかったんです。
若旦那は知らなかったとはいえ、
相手の立場を無視した「情けが仇」となったんです。

もしおかみさんが死んでしまったら…、
優しい若旦那は必ず自分がしたことに気が付いて、残された子供の面倒を見、
それでも背負った十字架の重さに生涯苦しんだだろうな。
私はそう思ってしまいます。

こんな余韻を観客に味あわせるなんて私は御免蒙ります。

そして「現実はもっと非情だ」(この物語の社会背景は現代よりはるかに非情ですが)
と、おかみさんを死なせるのであれば、
物語の筋立てを再構成したほうがいいと思うんです。今のままではいけない。

お人よしで呑気でどこか憎めない若旦那、
厳しいようで実は思いやりのある叔父さん、
見ず知らずの若旦那を助けてくれる気のいい下町の住人、
おかみさんの困窮を知りつつ、自分達のことが精一杯で助けられない長屋の人達。

こんな登場人物が巡りあって、その結果が「おかみさんの死」だとすれば、

若旦那の呑気さも、叔父さんの温情も、下町住人の義侠も
一体何だったんだとむなしさと共に消し飛んでしまい、
若旦那の勘当がとけたところで、そんなことは
もうどうでもよくなってしまいます。
文脈を無視した物語は見る者を疲れさせるだけではないでしょうか。

厳しい現実が話の背景にあるけれど、その中で
人の巡り会わせを信じさせてくれるような物語。

そんな物語が適当な改変によって歪められてしまう事が
(明治の速記本とかみるとおかみさん死なないんです)
私にとっての「非情な現実」だったりします。

2012年7月5日木曜日

「情けは人の為ならず」唐茄子屋政談

先日は落語講座へいっぱいのお運びありがとうございました。

今回の演目は「唐茄子屋政談(とうなすやせいだん)」
唐茄子とは「かぼちゃ」のことです。
政談は大岡政談由来の話。「奉行によるお裁き」のシーンがあるのが常ですが、
現在この話のお裁きシーンは消失し、内容も不明。

『吉原での遊びが過ぎて、家を勘当された若旦那。
すぐ行き所がなくなってしまい、絶望して川へ身をなげようとしたところを
偶然通りかかった実の叔父さんに助けられます。
明くる日から唐茄子を売って歩くことになるのですが、
肉体労働などしたことがない若旦那…』

『あまりの荷の重さに耐えかねて転んでしまった若旦那ですが、
見ず知らず気のいい下町の住人に助けられ、
唐茄子をすっかり売りさばいてもらいます。
二つ残った唐茄子をかついで、貧乏長屋へ売りに入っていくと
どことなく品のあるおかみさんに呼び止められ…』

場面転換が多い話ですが、それぞれのシーンに見所があり、
また登場人物の多彩なキャラクターが、物語の世界を豊かなものにしています。

この話の演じ方には、途中で話を切って終えてしまうパターンもありますが、
もちろんフルバージョンでやらせて頂きました。

今回は落語そのものは、現代ギャグを入れない「本寸法の落語」のまま
初めて聞かれる方にも楽しんでもらえるよう、マクラ(話の導入)の前に、
「プレゼンテーション」をさせて頂きました。

なかなか好評を博しまして、これからも継続して参ります。
落語に興味はあるけど敷居がちょっと高い、と思ってらっしゃる方は是非。

この噺は最後、「情けは人のためならず」と言って締めくくります。

この言葉、
「人に情けをかけると、かえってその人のためにならない」
という誤った解釈が広がったこともありました。
高度成長期に、自己責任論の台頭により出てきた誤用だと
する説もありますが、どうもあてにはなりません。

正しい意味は、人のためならず=自分のためで、
「人に情けをかけると、巡り巡って自分に返ってくる」


私はこの言葉が子どもの頃は嫌いでした。
自分に返ってくるから情けをかけるとは、
なんて利己的な言葉なんだろう、「卑しいなあ」って思ってました。


しかしそれも間違った解釈だったんじゃないか、と気が付いた。


「人にするんじゃあない、自分にするんだ」
他の落語でも、第三者が「情をかける人」に対して、
言い聞かせるような場面があります。
その時の言い方や口調に気付いて、はっとなった。

「情けをかけられた」側は、そのことが負い目となって生涯苦しむこともある。

「情けをかけた」側も、「俺がしてやった」と傲慢になったりすることもある。
またそうでなくても、情けをかけた相手が負い目や引け目に思っていることに
気が付けば、いたたまれない気持ちにもなる。
「人のためにやってるんだ!」で周りが見えなくなることもある。
人の為と書いて「偽」と読みます。ハイ。

しかしそういう気持ちに振り回されるのは、人間なら当たり前のこと。
でもそれでは世の中を生きづらくなるだけで、いいことなんかない。

「かけた情けが仇となる」という言葉がありますが、
そういう「情け」に付随する様々な感情に振り回されないように、
「巡り巡って関係のないところから自分へ返ってくる」
と考えた方が、健全な社会関係、「付き合い」を保つ事ができる。


「情けをかけた(かけられた)」という意識の獲得は全ての人のためにならない。
自分のためにする、と考えた方が健全である。
この言葉はそう説いているのではないのでしょうか。

これは私が落語の中で使われる様子から感じたことですので、
「学問的」には間違っているかもしれません。

しかし「寄席は浮世学問の場」と申します。
澁澤榮一翁は「落語は世態人情の機微を穿つもの」であると。
だとすれば、あながちこの解釈も間違ってはいないと思うんです。

まあこういうことをいちいち言うのは、「野暮な」物言いかもしれませんけれど。

でもこれだから、やっぱり古典落語は侮れない。
「現代の価値観に合わせる」、なんてことを
無自覚にやったりすると落語の「語」が死にかねない。
ということを改めて確認しました。

「唐茄子屋政談」の結末部分は落語家によって演じ方が変わるのですが、
それは次回の講釈、
「おかみさんを何故死なせてはいけないのか」にて。

2012年6月11日月曜日

6月の落語講座のお知らせ

来週6月20日(水)は月に一度のお楽しみ、
背中家腰楽の落語講座がございます。

今回は落語に入る前に、ちょっとした「仕掛け」を用意しました。
その中身は…当日のお楽しみ。

午前中はこちらにて、

場所  暮らしの学校

時間  6月20日(水) 10:30~11:30

電話  0120-511-533

WEB  暮らしの学校(講座ページ)


夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて


場所  喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩分)

日時  6月20日(水) 20:00より 

電話  050-3598-6745

WEB  http://ameblo.jp/slothcoffee/

乞うご期待!

2012年6月8日金曜日

「マインドコントロールの恐怖」に隠される問題

「マインドコントロールはもう解けたのか」
「この時期の逮捕は都合の悪いことを隠そうとする
何者かによる国民へのマインドコントロール」
と喧しい今日この頃ですが、

本日の記事は、少し前にマスコミが

『女性芸能人が占い師と同居し、外界との関係を絶って、
TVにも出演しなくなり、家賃を滞納したり大変な事になっていたが、
家族が救出して一件落着!』

としきりに報じていたほうのお話が中心。
そして『マインドコントロールの恐怖』と。

この言葉は新興宗教や、わけのわからない治療法などで、
何らかの被害が起きて事件に発展した時に良く出てくるフレーズです。

マインドコントロールという言葉は直訳すれば「心理操作」ですが、
こういう場面で使われるマインドコントロールは、
「他者により、拒絶するのが困難な状況下で、
ある思想や考え方に誘導されてしまうこと」と定義されるようです。

うーん…、そうなると落語家の前座、見習いは
日々マインドコントロールを受けていることになりますな…

では「一般常識から逸脱し、社会の中で様々な問題を引き起こしやすい、
特殊な思想や考え方に誘導されてしまう事」と付け加えましょう。

これにも当てはまる落語家さん随分いますよ、という話は置いといて…

マインドコントールされている状況は確かに恐ろしいと言えますが、
本当に、マインドコントロールそのものや
「マインドコントロールする人間」が諸悪の根源なのでしょうか。

なぜその人がマインドコントロールされるところまで到ってしまったのか、
という視点で考えなければ、問題の本質は見えて来ないような気がします。

悩みや苦しみが自分だけで解決できない時、
人は誰かの助けを必要とすることがあります。
その「誰か」はまず親であり、兄弟、友人、
あるいはソーシャルメディアの知り合いかもしれません。
(それらの人が悩みの種である場合を除いてですが…)

必要な「助け」は、必ずしも具体的な「助け舟」ではないかもしれません。
いろんな話をしたり、一緒に過ごす中で、「苦しみ」が解消されることもあります。

しかし、たとえ友人や親が冷たい人間でなかったとしても、
その人の生きる希望につながる存在になれないことだってある。そんなとき、
「この人たちと一緒では解決できない(幸せになれない)」
と感じてしまう人もいるはずです。そうなると孤独感は深まります。

親にも友人にも自分にも解決できない「苦しみ」を抱えて、
赤の他人である占い師の前に立つ人の心はどのような状態でしょうか。

また、「誰にも解決できないものを抱えています、助けてください。」
というような人間を前にして、占い師はどのような感情に支配されるでしょうか。

占い師が「つらい思いをしている人を救いたい」
という動機でその職を選んだのであれば、実際に助けてあげられるかは別にして、
目の前の人に感情移入して、優しい言葉、
慰めの言葉、あるいは厳しい言葉をかけるのではないでしょうか。

その言葉が占い師の本心から出た(と感じられる)ものであれば
「この人は真剣に私のことを考えてくれている」と
占い師との間に信頼関係が生まれることもあります。

その関係の中で、今までになかった安堵感、納得感が得られれば、
「私を救ってくれるのはこの人だけ」となって「依存」する事もあるでしょう。
解決できない問題を抱え、どうしていいかわからない状態で、
導いてくれる(コントロールしてくれる)存在を探していたのですから…。

そうなると、今まで自分を導いてくれなかった、
もう既に占い師よりも信頼度の低くなってしまった、親や友人といった
周りの人が占い師を非難するようなことを言えば、
その人に対しては敵意を抱くかもしれません。

ここで依存させている側が、きちんと立ち直らせ、
自立していけるように導くことを念頭に置いていれば、
新聞沙汰になったりはしないでしょう。
まあそんな占い師なら、そもそも依存なんてさせない。
売れっ子占い師は、依存がどういうリスクを孕んでいるのかよく知っているはずです。

善意や同情心を持って一緒になって真剣に考えたとしても、
その人がキチンと生きていく道筋をつける能力が無ければ、
「人柄は良くても無能な指揮官」を妄信して付き従う兵と同じく、
待っているのは全滅(共倒れ)というひどい結末です。

昔の人はこういうことを「かけた情けが仇となる」って言ったもんです。

まあこれが悪党ならば、依存させたまま、人を支配する全能感に酔ったり、
財産をとことん毟り取るんでしょうが、
悪意の無いほうがタチが悪い場合だってある。

「この人のためにやっている」という意識が、
依存させている側の存在意義や正当性を保つ、
大義名分になっていることもあるからです。
こうした場合、起きている間違いがどんなにひどくても、依存関係にある双方共が、
完全に破綻するまで間違いに気が付かなかったり、見て見ぬ振りをしてしまいます。

こういったことは、一般的な人間関係でも起こりうることです。
私のような施術を生業にしている人間は、患者さんとの関係性において、
特に気を付けなくてはなりません。

そして、たとえ依存関係から開放されたとしても、
「占い師に頼るしかない状態に追い詰められた環境」
に戻るだけだとしたら…

「ひどいめにあったけど、マインドコントロールがとけてよかったね」
と部外者はそれでもいいのでしょうが、少なくとも近くにいる人は、
「大事な人が占い師にすべてを委ねることになった」
その意味をもう少し丁寧に考える必要があると思います。

2012年5月28日月曜日

「中国化する日本」で読み解く「大工調べ」

本日は、書評とそれを読んでの落語「大工調べ」への考察。結構な長文です。

先日(2ヶ月前だけど)、「日本のジレンマ」という
討論番組を見ているとき、ピクッときました。
「ん?こんなこと言ってる人今までいただろうか」

日本人の常識や行動原理の背景を冷静にみつめる歴史家の言葉に
「ああ、確かにそこから始めなきゃどうしようもない、
とにかくこの人の話を聞いておかないと」
となりまして、取り寄せましたのがこちらの本。














「中国化する日本」 與那覇 潤

この本が明示してくれるのは、今行き詰っているように見える日本社会で、
「これからなにができるか」という発想に到るための「どうしてこうなった」

ちなみに「中国化」と言っても「日本が中国に侵略される」とか
「中国万歳」みたいな話ではございません。

簡単に説明すると、いや簡単に説明できないんですが、
「中国化」=「自由主義で自己責任の社会」
そしてその対極としてあるのが、
「江戸時代化」=「封建制で自由はないが家職で食べていける社会」

歴史上、日本がどの時代にどのような社会を選択したのか。
それによってどう成功し、また失敗したのか。
この本は「中国化」と「江戸時代化」という二つの概念を用いて、
日本の「〇〇時代」の真の姿を実に明快な理路で解き明かし、
現代に連続する形で「日本史」を解説してくれます。

今まで日本史関係は歴史小説しか読んでない身としては、
「そういう視点があったのかぁ」と驚いた後で、勉強不足を恥じたりしまして。

しかもこの本に述べられていることは、著者一人の独創ではなく、
「プロの間では定説になりつつある学問成果」というのだから、さらに驚き。
私がこの本に書かれていることを耳にしていないのは、不勉強もあるのでしょうが
このような「学問成果」が現代の一般人にきちんと届くような形で
今まで提示される事がなかったからではないのでしょうか。

「古典落語」を現代人向けにわかりやすくしようと
妙な付け足しをする事で噺が破綻することがありますが、
こういう新作は大歓迎ですね。…落語と一緒にしちゃいけないか。

そして歴史の背景にある行動原理や社会構造を
現代につながる形で、現代の言葉に置換して理解する事で、
自分の規範や常識が「そこから来てたのか~」と身につまされたり。

「中国化」と「江戸化」は歴史認識を改めるキーワードでもあり、
それは同時に現代を正しく理解するキーワードとしても機能している。

この二つのキーワードで全てが説明できるわけではありませんが、
いや全て説明できたらおかしいんですが、
無自覚に受け継いでいる「行動原理」や「社会構造」に
名前を与えて「意識化」しなければ、間違いは繰り返されます。

日本人が現在の行き詰った社会と対峙するためには、
「中国化」「江戸化」は実に重要な視点であると思われます。

私なんかは落語の筋立てに対しても新たな視点が持てました。
例えば今月の落語講座の演目「大工調べ」

『家賃を滞納したために道具箱を大家に持っていかれた
ちょっとぼんやりしている大工の与太郎。
仕事に出て来ない与太郎を案じて長屋を訪れたのは大工の棟梁、政五郎。
今は持ち合わせがないけれど、自分に免じて道具箱を返してくれと
大家に頼みこむのですが、言葉の行き違いから争いとなります。
「道具箱は渡せない、家賃全額を持ってくれば返してやる」
と、へそを曲げた大家は棟梁の「面子をかけた」要請をかたくなに拒絶します。
爆発した棟梁は啖呵を切って奉行所へ。果たしてお奉行様のお裁きは…』

という、落語の中では「政談もの」と呼ばれるジャンルなのですが、

「江戸化」の代表的性格を持つ棟梁と、
「中国化」的性格の大家の争いと見れば、
対立構造が実にわかりやすく理解できます。

一方は「困った時はお互い様」の家職を継いだ村社会の代表、
かたや、元はよそ者で成り上がりの経済自由主義者。

大家は元はこの本にも書かれている、農村の次男三男といった地方出身者、
食い扶持を稼ぐために家から出されて都会で働く事を余儀なくされた、
いわゆる「野暮」な田舎者だったかもしれません。

江戸という都会で安価な労働力は「フリーター」として需要はありましたが、
家職で暮らす生まれつき食い扶持を持ってる「江戸っ子」にしてみれば、
氏素性のわからない、金を稼ぐ(食べる)ために色んな事をする蔑むべき存在。
場合によっては自分よりいい暮らしをすることもあったりと面白くない。

「おれはあそこに顔を出したくなかったんだよ」と棟梁。

落語には田舎者を蔑むような表現が往々にして見られますが、
「江戸っ子」という強い身内意識の形成には、地方出身者に対して、
地縁という「絆」で既得権益を保持して対抗しようという
排他的な側面もあったのかもしれません。

でもこれ現代でもあてはまりますね、日本人の外国人労働者に対する反応とか…。

しかし、帰る家の無いよそ者は体を壊したら、たいがいは「野垂れ死」。
「かわいそうだからなんとかしてやりましょ」というセーフティネットしかない江戸時代。
「人情」が機能するのは「身内に対してだけ」という現実が、
この本でも挙げているような、田舎から出て来た奉公人の
非常に高い死亡率にもつながるわけで。

この大家がそんな「よそ者」から這い上がった存在だとすれば…

「私が頭を下げているんだから、渡してくれたっていいじゃないですか…」
と頭を下げる事でうやむやにしようとする棟梁の言い分は、
かつて生きるため、わずかな銭を稼ぐのに頭をペコペコ下げて、
低賃金でどんなことでもやった大家にしてみれば許し難いのは当然でして。

棟梁にしてみれば、身内意識という情を持たないような奴は許せない。
「てめえなんざ、どこの馬の骨だか、牛の骨だかわからねえ…」などと
「よそ者である」ことや「成り上がった」事実を、絶対的な悪と認定して、
啖呵の中で並べ立てます。やっぱり結構「狭量」な江戸っ子。

実際のところ大家の主張は筋が通っているのですが、
法より人情という社会では、大家が悪役になってしまいます。
もっとも世間のルールが理解できない与太郎にルールを適用する大家は、
都合の悪い人間は排除、という了見の狭い人であることは確かです。
演者によって大家を極悪人に描くかどうかが変わるのですが、
その辺りで演者の了見もわかったりします。

そして解決できない「江戸化」と「中国化」の対立は、
御奉行様の絶対的徳治に丸投げして、折り合いをつけてもらうという。

「道具箱を二十日余りも留め置かれ、老母一人養い難し」
与太郎の母親を出した時点で勝負はついている。

本当は起訴権も裁判権も持っている奉行所が、法に基づかないで、
恣意的になりかねない「徳」で裁いたりしたら危険極まりないんですけどね。

ちなみに結末はというと、富の再分配
…我々って現実の世界でもこういう物語を求めているような気がしません?
最近の新作落語を見てると、与太郎のような社会にうまく適合できない人間を
吊るし上げるストーリーのほうが腑に落ちる人もいるようですが…。

この落語では「与太郎」を愛すべき人物に描くことで、
他の登場人物の性格を際立たせることに成功しています。
「江戸化」にも「中国化」にも全くブレない与太郎の存在によって、
観客は二人の争いが泥仕合に陥っていることを理解出来ます。

じゃあ「与太郎化」…というわけにもいきませんが、
メンツや金に振り回され、結果的に自分を追い詰める周囲をよそに、
何があっても与太郎は与太郎であることをやめません。
悩み苦しんだりはせず、いつも暢気。それでいて憎めないときている。
私たちは与太郎の「心のゆとり」に学ぶべき所があるのではないのでしょうか。

講釈の「秩序」は一つですが、落語では複数形で描かれます。
道徳的な講釈へのアンチテーゼという側面も持つ落語は、
「とにかく江戸時代は人情があってよかった」みたいな単純な話にはなりにくい。

また落語という芸は、演者を通して物語が表現されることで、
作者すら意図しない「視点」を観客に示唆してくれることもあります。

そして「瞬間的大笑い」じゃなくて「クスッ」とくるから後で考えて、
色々と「ジワッ」とくる。やっぱり古典落語は後世に残したい「物語の表現」ですね。

とまあこんな具合に落語の解釈にも新たな視点をもたらす、
「中国化する日本」は杉田整体院の隣のBooks and crafts SARANAにも
入荷していますから、学生さんも、歴女も、右や左のおあにいさんも、
是非手にとって読んでみてください。とまあ宣伝なぞもしたりして。

「大工調べ」はネットで検索するといくつかの動画が見つかりますが、














やっぱり↑コチラの師匠がおすすめです。

2012年5月22日火曜日

(続)30年目の「大工調べ」

前回の「30年目の大工調べ」の続きでございます。

実は小学5年生の頃、この「大工調べ」を人前でやった時、
啖呵に入る直前で絶句したことがあります。
この日のことは今でもはっきりと覚えています。

それは自宅の2階で、数人の知らない方を含む大人の前でやった時のことでした。

その中に、柔和な表情をしているとても穏やかな方がいらっしゃって、
ニコニコと私の落語を聞いてくださっていました。
私はその方が視線に入る度にうれしくなっていました。

途中までは実に順調でした。ところが、
「いらねえやい!」という啖呵の最初のセリフが言えない。
セリフは一字一句覚えているはずなのに、言葉が詰まって出てこない。
兄が近くに寄ってきて、セリフを小声で教えてくれる。セリフはわかってる。
でも顔を真っ赤にして、青筋立てても、口から空気が漏れるだけで何にも言えない。

「もういいよ」誰かが言ってくれました。
ふうっと、やっとまともに呼吸。こんなことは初めてでした。

気分が落ち着いてから「最後までなんでやれなかったのかなあ」
自問自答したのを覚えています。いくら考えても理由はわかりません。
それからというもの、モヤモヤが晴れず、周りにも制止されるようになり、
ついには落語自体を人前であまりやらなくなっていきました。

30年経った今は絶句した理由がわかります。

その頃自分で演じていて感じる「啖呵」の気持ちよさには、
「人前で悪態をつく快感」のようなものが含まれていました。
そんなものを、その日初めて会った、目の前の穏やかな人に向ける事が
不意に恐ろしくなったんだと思います。それで絶句してしまった。

実際に啖呵というやつは、
いくらキチンとした江戸弁でも、演者の気が入ってしまって、
本気で怒っているようだと、聞き苦しくなります。
啖呵に振り回されない感情の制御が、演者には求められます。

まあ、全然制御不能の人や、落語を通して「人間の悪徳を見せる」
なんて開き直っちゃう落語家もいたりして…、いやはや。

江戸前の落語は「淡々と演ずるべき」という大前提があるのですが、
つまるところ、スーッとする、気持ちの良い啖呵を切るには、
「言葉をきちんと制御する技法」
「感情を制御できる演者の了見」が大事なのだと思います。

2012年5月21日月曜日

30年目の「大工調べ」

先日は落語講座へのいっぱいのお運び、ありがとうございました。

今回の演目は「大工調べ」。

『家賃を滞納したために、道具箱を大家に持っていかれた大工の与太郎。
仕事に出てこない与太郎の様子を見に来たのが大工の棟梁、政五郎。
今は持ち合わせがないけれど、自分に免じて道具箱を返してくれと
大家に頼みこむのですが、言葉の行き違いから争いとなります。
政五郎は与太郎を連れ、奉行所へ「お恐れながら」と訴えてでますが…。』

話の登場人物は、「与太郎」、「政五郎」、「大家」、「お奉行様」

この中でも与太郎は「馬鹿で与太郎」なんて言われ、
呑気でぼんやりした人間の代表として、色んな落語に登場します。
そして落語には「人情噺」、「長屋噺」というような分類がある中で、
「与太郎噺」というジャンルもあるほどの人気者。

そういえば、私が志ん朝師匠に最初に教わったのも
「酒の粕」という与太郎の出てくる小咄でした。

落語家の世界では、物忘れや間抜けなしくじり(失敗)をすると、
「馬鹿だねえ~」の代わりに、
「与太ってるねえ~」なんて言われたりしましてね。

落語によって「与太郎」の性格はかなり変化するのですが、
私はこの「大工調べ」の与太郎が一番好きです。
只のバカではなくて「物語」に調和をもたらす存在になっています。

「大工調べ」は、私が小学3年生の時、初めて自分の小遣いで買った
古今亭志ん生師匠のレコード(当時1300円)に入っていた演目。
そして初めて人前でやった噺です。で、今回の上演は小学生以来30年ぶり。

この話の一番の聞き所は、棟梁が大家に向かって切る「啖呵」。

大家の悪口を並べ立てるのですが、
ポンポーンと飛び出す、立て板に水の江戸弁の啖呵は、
嫌味がなくって、そのテンポと調子が実に気持ちいい。

この啖呵というやつは「江戸弁」という表現方法が肝心だったりします。

これを標準語でやったりすると、「早口の暴言」になってしまい、
完全に笑いの質が変化してしまいますし、「暴言」を向けてもいいようにと、
大家を悪人にしてしまうと、聞いてて本当に嫌な気分になったりもする。

「古典芸能」の表現方法が、なぜそうなっているのかに目を向けてみると、
人が人に向けるべき適切な表現
を現代の私達に示してくれることがあります。間違っている場合も含めてですが。

実は啖呵を制御するには「技法」だけでなく、もうひとつ大切なことがあります。

小学生の私は思い知らされることになるのですが、それは次回の講釈にて。

2012年5月11日金曜日

落語講座のお知らせ

来週5月16日(水)は月に一度のお楽しみ、
背中家腰楽の落語講座がございます。

今回のお話は途中で「啖呵」を切ったりと、
少々大きな声を出しますので、あらかじめご留意ください。

午前中はこちらにて、

場所 暮らしの学校

時間 5月16日(水) 10:30~11:30

電話 0120-511-533

WEB  暮らしの学校(講座ページ)


夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて


場所 喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩分)

日時 5月16日(水) 20:00より 

電話  050-3598-6745

WEB  http://ameblo.jp/slothcoffee/

乞うご期待!

2012年4月26日木曜日

落語は何色に…

前回からの続きものでございます。

かつて「花王名人劇場」という演芸専門のTV番組がありました。




こちらは十数年前、兄弟子に頂いた
「花王名人劇場」のバッグ。






小学生の頃よく家族で見ておりました。
ある時、そこでさる噺家さんが、
「犯罪や事件を起こした人を社会復帰させよう」
という内容の新作落語をやっておりました。
ワイドショーで話題になった人の実名を挙げては、
「航空機を墜落させた機長が歌手デビュー!」、なんて具合でして。

私は刺激的なネタにケタケタと笑っておりました。
しかしひょいと脇を見ますと、母親がいつに無く険しい表情。
で、はっとなった。そしてだんだんと気分が悪くなっていきました。

時事ネタ、ワイドショーネタが悪いわけではありませんし、
どんなことでも笑い飛ばしてみせる、という姿勢も大切です。

けれども悲惨な事件や人間の尊厳に関わるような事を、
それを取り上げる前提や文脈をおろそかにして「笑い」にしたならば、
一方的に「誰か」を踏みつけにして傷つけることにもなりかねない。

「笑い」ではなくて「嗤い」に無自覚に反応している自分の危うさに、
私は母親の様子を通して気付くことが出来ました。

かつてオウムの事件があった頃に、寄席で若手が連発する
ショッキングなオウムネタにお客さんが辟易した、という話があります。


「落語は大人の笑い」なんてことをよく申します。

しかし、この言葉は「大人」
「もののわかった人」と定義するか、
「おっさん」と定義するか
またこの言葉が、観客に向けられたものとするのか、それとも
落語家自身に向けられたものとするかで、
まるで意味が違ってきます。

とにかく大勢にワッと受けるんなら、露骨でもなんでもいい、
現代の「落語」はもうそういう芸能なんだ、
と思い定めている人は、それもよいかと思います。

まあそれならそれで、
「伝統芸能は素晴らしい」とか「笑いは人生に大事なものです」
なんてあんまり立派なことは、言わない方がいいと思いますけど。

「芸だけを追及しても食べていけない」ということもありますが、
刺激の強いネタというのは、お客さんよりも演者自身にとって
麻薬のようなもので、受けるためにそれを求めれば求めるほど、
「話芸」の本質から離れて行ってしまうと思うんです。


落語という大人の笑いがこれからどういう色に染まっていくのか。
「芸」と「商売」の間でジレンマを感じている落語家と、
ご覧になるお客さんという双方の「大人」にかかっていると思います。

2012年4月24日火曜日

小児は白き糸の如し、背中家腰楽の場合

前回記事「真田小僧-小児は白き糸の如し」で取り上げました
この言葉を自身にあてはめてみますると、
私が「らくご色」に染まりましたのは小学1、2年生の頃でございまして。


毎晩寝るとき、親が必ず落語のテープをかけておりました。
普段は厳しい父が真っ暗闇の中でクスクスと笑っている。
はて何がおかしいんだろうと耳をそばだてている内、
落語の面白さに嵌まっていきました。


6、7歳で落語を理解した、なんてえますと、
「栴檀は双葉より芳し」と言われたかと思えば、
「五歳で神童、二十歳過ぎればただの人」と言われたり、まあ大変。


しかしこれは、親が興味を示しているものを
私が必死になって理解しようとした結果起きた事でして、
どんな子供でも起こり得たことだと思います。(別に落語でなくても)


また、私が子どもの頃は、親と一緒にいる時間が長かったですね。
そこで必然的に空間だけでなく情報も共有していることで、
いろんな刺激を親を通して見ることが出来ました。


現在は、親子で一緒にいても親はスマホ、子供は携帯ゲーム機という、
それぞれのパーソナルな世界に分かれてしまいがちですが…。


例えば昔はTVを見るのも一緒でした。
今や携帯、PCでも見られますが、一家に一台の時代です。
我が家の夕食後の娯楽といえば、
みんなでトランプや花札をすることもありましたが、
なんといっても「テレビジョン」でございました。


しかしチャンネル権は子供にありませんので、親の見たい番組を見ることに。
土曜8時に「ドリフ」がみたくても「暴れん坊将軍」見せられたりしまして。


しかし、一緒に視聴している事で、両親や祖父母が笑ったり、怒ったり、
時には泣いたりする姿をよーく見ることができました。


ああこういうことがおもしろいのかな、
うーんそれは僕は違うなあとか、TVから発信される情報を
周りの大人の価値観との対比を経て、自分の中に落とし込んでいました。


家族でTVをシェアしていた時代、TVが子供に与える影響は、
単純に放送内容だけでは決まらなかったんじゃないでしょうか。


そんな中で私はある時、笑いの「闇」に気が付くのでありますが…
それはまた次回の講釈。

2012年4月20日金曜日

真田小僧 ― 小児は白き糸の如し

一昨日は落語講座へいっぱいのお運び誠にありがとうございました。

演目は「真田小僧」。フルバージョンでやらせて頂きました。

「小児は白き糸の如しなんて申しまして…」
子供が登場する古典落語の語り出しでございますが、
最近はこういう言葉もあまり使わなくなりました。

「染めようでどうとでもなる」と続き、
子供は育て方次第で良くもなれば悪くもなる、という意味でして。

ところで「白いものを染める」といった物言いは、昔の日本では他にも見られます。

花嫁が白無垢を着たのも、「あなた色に染め上げて」、といった意味があるそうで。
まあでも「女+家=嫁」ですから「嫁ぎ先の家の色に染まります」、
という意味合いのほうが強かったんでしょうけど。
かつては、こういう「家制度」というものがございました。

考えてみますと日本の就職システムなんかもそうですね。
「新卒採用」も無垢な学生を「会社色に染め上げよう」てなわけですから。
「仕える事」と書いて「仕事」でございます。はい。

最近は劣悪な労働環境で社員を苦しめるような
「ブラック企業」もあるようですから、
我慢して働いてたら身も心も真っ黒に染まってた
なんてことがないように気をつけなくっちゃあいけません。

まあ若者や女性が何色に染まるのか、
何を受け継ぐのかを、強権的に押し付けるような社会は、
抱えている悪い部分も引き継がせることになりますし、
それまでの「仕組み」が壊れちまったら無残なもんです。

また染まった人は「仕組み」が機能不全を起こしていても
気がつかないもんだから、完全に破綻するところまで行ってしまうという…


ところが時代の空気を敏感に察知して、
とっとと変わって参りますのが男女の仲でございまして、
只今は若い男性に「草食系」が急増中。

ほんのり「草木染め」はいかがでしょ、てなもんで。

でも流行に乗っかってるだけだったり、女子の顔色伺いながら、
虫も殺さぬ草食系を演じている「隠れ肉食系」かもしれませんから、
そこんところを、娘さんは気をつけないといけません。

まあ最近は、「肉食女子」なんてたくましい女性もいらっしゃるようですから、
余計な心配かもしれませんけどね。

2012年4月16日月曜日

今週は落語講座があります

4月18日(水)は月に一度のお楽しみ、
背中家腰楽の落語講座がございます。


午前中はこちらにて。4月より開始時間が変わりました。


場所 暮らしの学校 (JR岡崎駅より徒歩5分)

時間 4月18日(水) 10:30~11:30

電話 0120-511-533

WEB  暮らしの学校(講座ページ)


夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて


場所 喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩分)

日時 4月18日(水) 20:00より 

電話  050-3598-6745

WEB  http://ameblo.jp/slothcoffee/


乞うご期待!

2012年4月6日金曜日

BS洋楽グラフティ80’s その1

先日、「BS洋楽グラフティ80’s」という番組がやっておりまして。

80年代に洋楽ファンだったわけでもない私は、
別にノスタルジーも無く、何の気なしに見てみたのですが…

これが、スゴイ!

型破りで、とにかくガンガンくる80’sに圧倒されました。

特に、The Manhattans はイカしてました。YouTubeよりShining Star。


BSで流れたのは別の映像で、そちらはまた雰囲気があって違った趣がありました。

体裁なんぞに縛られない、思い切りや勢い、個性というものから、素直に刺激を受けました。

2012年4月1日日曜日

ヒュルル、ジンジン!

最近、NHKで「みんなのうた発掘スペシャル」という番組がやっておりまして。

NHKが50年間で放送したみんなのうたは1300曲もあるそうですが、
なんとそのうち500曲は映像や音源を紛失してしまったとのこと。

そこでその時代にVTRなどで保存していた視聴者から
映像を提供してもらい、失われた曲を再生しようという企画が現在進行中です。

なんてずさんな管理体制なんだ!という意見もあるでしょうが、
映像や音源といったものに対する価値基準が、現在とは違っていて、
きちんと管理する意義を見出せていなかったんだと思います。
DVD化どころか再放送ということすら認識していない時代ですからね。

で新たに発掘された曲を放送していたのですが、
これがイイ!

『わたしはとうふです』は、なんだか体が動き出すようなコミカルな曲。
今回、熊倉一雄さんの曲が2つも発掘されたのは大変めでたいことです。
(ばくさんのかばんとか名探偵ポワロで有名な方ですが、みなさんご存知でしょうか?
この間モノマネが通じなくて、ちょっぴりショックでした。)

そして『ヒュルル、ジンジン、からっかぜ』
デュークエイセスが七五調(正確には3,4,5)のリズムにのせて歌い上げる、
なんとも楽しそうな題名の唄。間奏で「八木節」が入るところもイカしてます。

「赤城おろしの笛が鳴く」とか「影が長いよ耕運機」
と歌詞を聞いていると40年前の子供向けの唄が、
豊かな語彙を持っていたことに気付かされます。

私は「昔は良かった」という懐古主義者ではありませんが、
楽しさを追求する中にも、子供におもねらない、迎合しすぎない、
久々に「子供だまし」をやらない「大人の了見」も感じました。

まあ昔は、良くも悪くもそれが当たり前だったんでしょうけどね。

2012年3月26日月曜日

なぜ「昔の町のお医者さんは良かった」のか

本日は医療に関するおはなし。おもろい話ではございません。

最近、患者さんから結構頻繁に伺う話がありまして。 

「病院に検査へ行ったら、担当の医師がパソコンだけを見て、
話している時もこっちの顔を一度も見ないんです。
顔色を見たりとか、触診なんかは一切ありませんでした。
最後まで画面だけを見て、画面に向かって話して、
薬だけ決めて、ハイ診察終わり。」

「こんなモノみたいな扱い受けたのは初めてです。
あんな医者は信用できないからもう行きたくないなあ。
昔の町のお医者さんは親身になってくれて、ホントに良かったんですけど」

町医者の事を話されるのは、70代より上の方がほとんどです。
高齢の偉いお医者さんの中には、今の若い医師達に
「昔の町医者を目指せ」と仰る方もいらっしゃいます。

戦前の町医者の時代、現在の病院のように薬が豊富にあるわけでもなく、
治せない感染症などが無数にありました。
そんな中でどうやって治そうとしたのかといえば、それは「生活改善」

町医者はその地域に住み、全住民の治療を一手に引き受けていることで、
住民の体のことだけでなく、性格や趣味など様々な情報を把握していました。

そしてその時代は往診という診療システムがありました。
病人の家に上がって患者さんを診る。
そうすると、どんなものを食べているのか、衛生状態なども判断することができました。

こうした患者の様々な情報を知り得る事で、
「もっと栄養のあるものを食べなくてはいけない」
「また酒を飲みやがって、バカモン!」とか、家族に向かって
「この人に無理をさせていたら、後々あんたたちが困りますよ」
といった様々な意見をすることで、病人の生活改善を行うことができました。

そして自分の意見に従ってもらう為にも、
医師には「立派な人格」、時には「怖い人格」が求められました
尊敬される町医者はその役割をキチンと果たしていたのだと思います。
また、社会通念や当時の倫理観も含めて、
そういう医師が育つ背景もあったのではないのでしょうか。

どんな深夜でも家まで往診に来てくれるような、親身になってくれる、
立派で時には怖い先生が、患者の枕元で、その命の終わりを告げるとき、
今よりはるかに病気の死亡率が高かった時代であるにも関わらず、
人は「死」というシビアな現実も受け入れることができたのかもしれません。

しかし、いくら「昔の町医者を目指せ」と偉い先生が叫んでも、
現在では様々な前提条件が変化しています。

病院で初めて会って、(特に検診などでは)検査の数値を元に、
10分の診察時間中に、病気を判断しなくてはならない医療システムの中で、
かつてのような役割を果たす事ができるのでしょうか。

患者さんは患者さんで、生活を改めるよう意見されれば、
「あいつは嫌な奴だ」と別の医者に行ったりもする。
医師が、利益が少なくても不必要な薬は処方しない、という決断をしても、
「あの医者は何もしてくれない」と薬をバンバン出す医者のところへ行ってしまう。
親身になって患者さんの為にやったことが、逆に不信感を生むことも少なくありません。

患者が医者を選り好みできる時代に、誇りを持って、
「立派な医者」を目指す道のりは大変険しいものだと言えます。

もちろん、一定の患者さんにとって信用できない、
納得して診察を受けられないような医療は改善の必要があります。

けれども構造的な問題を無視して、精神論だけに傾いていても、
こうした「医療に対する不信」は解消されないのではないのでしょうか。

そしてこの問題は、医師だけでなく患者さんも、
今の医療にできることとできないこと、社会における医療の役割をキチンと認識して、
これからの「納得のある医療」を考えることが大事なのだと思います。

2012年3月23日金曜日

三味線栗毛

先日は落語講座へいっぱいのお運び、誠にありがとうございます。

今回の演目は「三味線栗毛」
もともとは講釈だったものを落語化したとされる古いお話でして。


「大名の酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)の次男、
角太郎(かくたろう)は父親に疎まれ、下屋敷で部屋住みとなって、
五十石というわずかな捨扶持で暮らしていた。
肩がこるという角太郎のために、用人の清水吉兵衛が呼んだのが、
療治をしながら落語ができる錦木(にしきぎ)という名の按摩(あんま)。
角太郎は錦木を大変に気に入って贔屓にするが…」


本来この「角太郎」は長男ではありませんので、
「角三郎(かくさぶろう)」とするのが正しいようですが、
かの古今亭志ん生師匠は「角太郎」でやってらっしゃいます。
おそらく語りの節回しを重視して、「かくさぶろう」より
すっきり発音できる「かくたろう」を選んだのではないかと。
うっかりして間違えた、という説も否定できませんが…

江戸時代は、たとえ大名家に生まれても長男でなければ、
不遇の人生を送る人が少なくありませんでした。
次男三男に生まれた場合は、「部屋住み」の身
(仕事もなく文字通り部屋に住んでいるだけの人、言わば強制ニート!)
 となって、もしもの時に家の血筋が絶えないためのスペアとして
生かされているような存在でした。

そうした不遇を意に介さない角太郎と、
錦木との身分を越えた関わり合いを、
講釈種らしく、さらりと描いたこの話 。
笑い所は少ないんですが、私は大好きな話。

人の「了見」をさらっと教えてくれる、こういった話は、
価値観が多様化した現代において、
大切なメッセージを含んでいると思います。

ちなみに杉田整体院では、錦木さんみたく、
施術中における落語の提供は行っておりませんので、
お間違えございませんよう…。

2012年3月19日月曜日

明後日は落語講座です

明後日3月21日(水)は月に一度の落語の講座。


午前中はこちらにて。


場所 暮らしの学校 (JR岡崎駅より徒歩5分)

日時 3月21日(水) 午前9:30より 全3回(年内毎月開催)
※4月より午前10:30~11:30になります。

電話  0120-511-533

WEB  暮らしの学校(講座ページ)

夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しており、
先日はわざわざ岡崎までUstream中継に来てくださった、

場所 喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩2分)

日時 3月21日(水) 20:00より 毎月開催(予定)

電話  050-3598-6745

WEB  http://ameblo.jp/slothcoffee/


乞うご期待!

2012年3月17日土曜日

ぶらりスロースチャンネルの旅

一昨日は落語講座を開催させてもらっている
喫茶スロース」さんが毎週木曜日21時から配信している動画コンテンツ、
Ustream「スロースチャンネル」に出演させて頂きました。

基本的にはスロースの邦さんと、カメラマンの東畑君のコンビが
こたつでまったりと色んな話をしつつ、途中でコーヒーをいれたり、
時には「じゃがりこ」をむさぼったりという、
スロース(Sloth=ナマケモノ)感満載の楽しい番組です。

今回は岡崎まで出張してくださいました。

普段はやらないのですが、
動画コンテンツということで、わかりやすい笑いもやってみようかと、
ドクロベエで有名な、故・滝口順平さんのモノマネから入らせて頂きました。

自分でもやってみたら、やたらと似ていたモノマネなのですが、
「口パクして音を他から出してたんじゃないか」と評してくださる方もいて、
結構な反響をいただいております。
(ルパン3世の声が変わった時の違和感の単位を「1クリカン」とすると、
この滝口順平は「0.5クリカン」ぐらいと言われたこともあったっけ)

いきなり「ぶらり旅」が始まり、「でいたらぼっち」も出現する動画はコチラ↓

http://www.ustream.tv/recorded/21118905

まああくまで余芸ということで…
落語の話なんぞもしておりますよ。

今回はカメラを含めた対人距離や、
共通認識などについても色々と勉強になりました。

遠方からわざわざ来てくれた邦さん、東畑君、ありがとうございました。

2012年3月9日金曜日

Ustreamに出ます

来週の3月15日(木)は21時頃からUstreamに出演します。

私が落語講座を開催させて頂いている、
喫茶スロースさんが発信する、
スロースチャンネル

テルミンのタカフミエさんも以前にゲスト出演なさっています。
(過去のライブも見られますので興味のある方はどうぞ)

本邦初公開のモノマネなども披露するつもりですので、
どうぞお楽しみに。

2012年2月21日火曜日

スロース演奏会

先週の金曜日、楽しみにしていた
「テルミンとギターとワインのしらべ」に行って参りました。

蒲郡市のビストロ ウメチさんで、

テルミンの高扶美枝さん、マトリョミンのmatotico(高さんと塩出真弓さんのユニット)
そしてギターデュオ「ボッサメガネーニャ」の演奏会。

それが本格フレンチを頂きながら、楽しめるとあらば、
もう行くしかございません。

テルミンは初めて聞いたのですが、なんとも不思議な音色。
人のわずかな動きにも反応して音を奏でるテルミンは、
奏者自身をダイレクトに投射する、とてもセンシティブな楽器だと思いました。

柔らかくて深みのある音色と、能を思わせるような、
静と動のある演奏法に、目も耳も釘付けになってしまいました。

ボッサメガネーニャの演奏も素晴らしく、
「すごいギタリストだったんだ」と今さらながらに思ったりして…
ウメチさんの料理に舌鼓を打ちながら、たっぷりと楽しませていただきました。

実は少し狭めの空間だったのですが、お皿や料理を手渡しで奥の人に運んだりと、
狭い事で逆に、知らない人同士の間に自然とコミュニケーションがあり、楽しかったです。

そしてお客さん同士の距離が近いから、
隣の人が心地よさそうにしているのが目に入ってくる。
するとなんだかこっちもうれしくなってくる。

とても元気になれる演奏会でした。

ライブの様子はyoutubeにもアップされています。
(スロースさんのページからどうぞ。リンク)

私もこういう「顔の見える」落語ライブをやっていきたいですね。
しかし同じ「顔の見える」でも「笑顔」じゃなくて、
「つまらなそうな顔」とか「寝顔」にならないよう気をつけませんとね。

2012年2月14日火曜日

明日は講座(落語)の日です。

明日は月に一度の落語の講座。


午前中はこちらにて。


場所 暮らしの学校 (JR岡崎駅より徒歩5分)

日時 1月18日(水) 午前9:30より 全3回(年内毎月開催)

電話  0120-511-533

WEB  暮らしの学校(講座ページ)

夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催している

場所 喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩2分)

日時 1月18日(水) 20:00より 毎月開催(予定)

電話  050-3598-6745

WEB  http://ameblo.jp/slothcoffee/


乞うご期待!

2012年2月2日木曜日

「骨盤ダイエット」はいつから?(解析編)

今回は最終回です。「骨盤ダイエット」が流行る背景について考えます。
前回までの記事はコチラ→(黎明編)(成長~成熟編)

「骨盤ダイエット」がブームになっている理由。

それはまず基本の概念として、近年の健康志向にピタリとはまる、
「健康的に痩せる」というアドバルーンを上げたからです。
そして、
「やっぱりお腹いっぱい食べたい」  → 「食べても太らない体質に」
「時間がない」「運動は大変」     → 「一日5分でOK」「〇〇をするだけ」
という、
現代人の誰にとっても、大変ありがたい効果を謳っているということ。

さらに健康志向が強い人には、「からだ想い」「病気知らず」「メンテナンス」
若く美しくなりたい人には、「アンチエイジング」「艶BODY」「美腰」「小顔」
ライフスタイル全般が気になる人には、「女子力アップ」「ストレスに強くなる」

世代や価値観の違う人達に対して、
組みあわせキーワードでチューニングすることにより、
多くの人に支持されているのではないのでしょうか。

私は無数にある「骨盤〇〇法」自体が効果のないものだと言うつもりはありません。
それをキチンと行って元気になっている人もたくさんいると思います。

ただそれを推し進めている人達が、「どういう言葉を使っているのか」
をきちんと見極めることで、その人達の「了見」はわかるのではないのでしょうか。
そこを理解した上で、振り回されずに上手に活用することが大事だと思います。

「1日5分でOK」に飛びつく人は、往々にして、その「1日5分」すら続けられず、
しばらくするとまた違う「1日5分」「〇〇するだけ」に飛びつくことになりかねない。
そういう人の心を見透かして、マーケティングは行われているかもしれません。

そして本が売れるところへ出版業界も「選択と集中」をしています
そこに「本づくりの良心」が果たしてあるのかどうか。

いずれにせよ2012年もこの潮流に変わりはないと思います。

それにしても、このことを真剣に話したら、本一冊分くらいのボリュームにはなりますね。
原稿を書いても出版社から総スカンをくらうかもしれないですけど。
もしこのネタで本が出せれば、私も晴れて「骨盤商売」の仲間入りですな。

2012年1月31日火曜日

「骨盤ダイエット」はいつから?(成長~成熟編)

「骨盤」の扱われ方をamazon検索で追って分析をしていきます。
今回は「成長~成熟編」です。(前回の黎明編は→コチラ)

20世紀の全期間で出版された「骨盤」と「痩せる」を組み合わせた本は
わずかに6冊でした。「腰痛」などを扱った健康関連本も23冊。
2001年はダイエット関係は0冊、健康関連本は2冊と風前の灯。

ところが2002年「骨盤ダイエット」と銘打った本が何冊か出版されます。
3年間ほどコンスタントに10冊程度の本が出ますが、
2005年には3冊と下火に…、なったかと思いきや、

2006年、突如として「骨盤ダイエット」本が大量に出現します。
なぜ増えたのかはわかりませんが、その数は23冊と今までの中で最高。
そして、2007年28冊、2008年64冊、2009年87冊と右肩上がりの急成長。

健康関連本は2008年13冊から2009年59冊と急激に増えています。
これは2008年ごろから流行り始めた「骨盤」という注目ワードに
乗っかる本が急増したからでしょう。
スポーツ関連、出産関連が特に伸びています。

それにしても数が多ければ、やっちまった感が漂うタイトルも出てくるわけでして…。
年代別に、「骨盤」と組み合わせて使われたキーワードと一緒に見てみましょう。

2008年

『YOGA整体―一人で簡単ゆがみ改善!

ユガンデルタール人からユガミネーゼへ、美の進化』

「ユガミネーゼ様ごきげんよう」とか言ってたんでしょうかね。全くもってアリエネーゼ。

この年に「骨盤」とセットにして使われたキーワードは「くびれ」「骨盤ネジしめ」。
また「主婦世代のカリスマモデル」みたいな人が著者となった本が増えています。

2009年

『1分間 骨盤リンパダイエット 「銀座」が認める、最新メソッド!』 

そりゃもう「銀座」が認めるなら間違いない!

『八代亜紀のゆるーい3カ月骨盤ダイエット―二の腕・ウエストに効く雨降れウォーク』

「雨降れウォーク」って……誰か止められなかったんですか。

この年ぐらいから流行した他の健康関係の言葉がセットになって、付加価値も上昇。
「リセット」「毒出し」「デトックス」などなど

2010年

『最後の骨盤 女力は骨盤で決まる 』(講談社プラスアルファ新書)

最後の骨盤があるなら、最初の骨盤はあるのか?

「一日30秒」「骨盤で免疫力アップ」「骨盤で幸せをつかむ」等々、
ニーズに合わせたキーワードの組み込みも定着してきました。
この年辺りから「骨盤枕」という言葉もあらわれます。

2011年は受けを狙ったタイトル(本人は真剣なんでしょうが)は見当たりませんでした。
業界が精度の高いマーケティング戦略を行えるようになったからでしょうか。

この年は過去最高の93冊が出版されており、組み合わせキーワードは
「お腹が凹む!」「-10歳アンチエイジング」「スピリチュアル」「断捨離」
など定番ぽいものから、時代に合わせたものまでチョイスにぬかりはありません。

それにしても「ダイエット」自体はずっとブームですが、
なぜ「骨盤ダイエット」がこれほどまでに、
もてはやされるようになったのでしょうか。
これはどうもキーワードの組み合わせがうまいだけではないようです。

続きは次回「解析編」の講釈にて。

2012年1月30日月曜日

「骨盤ダイエット」はいつから?(黎明編)

先日妻と「骨盤」の話をしていたら、
「昔は骨盤がズレたら大変だ、と思い込んでいたけど、
いつ頃からそんな一般常識や、骨盤ダイエットという言葉ができたの?」
と質問をされまして。うーん確かにいつからだろうか。

現在「骨盤」という言葉は日常的にTV番組や雑誌などで取り上げられ、
腰痛、ダイエット、体質改善、と様々な効果と絡めて使われています。

本来「骨盤」は医学用語であり、骨格のある部位を指す言葉で、
寛骨、仙骨、尾骨といわれる骨が強固に結合した、
複数の骨の集合体のことです。(わかりにくいと思った人は→こちら)

で、実際に「骨盤がズレる」ということはありません。
あるいは表現として間違っている、というのが事実です。
このことはまた違う機会に詳しく解説します。

一体「骨盤」という言葉への認識がいつから変わっていったのか。
検証方法として正しいかはちょっと疑問ですが、
amazonの書籍検索を使い、「骨盤」というキーワードで調べてみました。

全期間で調べると、総件数は969件でした。
これを年代別に調べてみました。

amazonで検索できる最も古いものは、1957年に出版された
『日本産婦人科全書〈第14巻 第1〉骨盤・腹膜及結合織疾患』
これは医学専門書で、この後も解剖学などの医学書のみが検索にかかります。
健康関連の一般書が出てくるのは1979年に出版されたこちらから。

『体は骨盤から治せ―土台から正す、誰にもできる』五味雅吉 (Hakko-books)

私が整体業界に入ったときに、有名人だったこの方は27件も検索にかかります。
婦人病や腰痛にとどまらず、色んな本を出しており
中高年の疲れや老化を改善するものやら、
果ては子供の視力回復の本まで出しているという…。まあ…スゴイですね。

ダイエット関係の本が出てくるのはもう少し後のことになります。
それが1988年の6月に出版されたこの本。

『こんなにヤセていいかしら―不思議な面白減量法 1回30秒だけで1日1キロ落ちる』

川津祐介 (プレイブックス) 











けれん味たっぷりのタイトルですが帯の一言がまたスゴイ。
- ぜったいにやり過ぎないで下さい -
昔は「本当に効くなら薬と一緒で、制御しないと危ない」と考える人が、
書籍を購入する人に多かったということですね。そのほうが信用できると。

俳優として有名だった川津祐介さんが書いたこの本はベストセラーとなり、
その中で紹介されている「骨盤体操」は大流行。
どうやら「骨盤」と「ダイエット」がセットになる土台は、この本によって作られたようです。

これ以外は80年代90年代「骨盤」というフレーズを使っている書籍は
「腰痛」や「婦人病」関連のものがほとんどで、その数も多くはなく、
ブームになったようなものも見当たりません。

私が整体修行を始めた1996年ごろには、
「骨盤のズレで体調がおかしく」という言葉を使っている人は結構いました。
骨盤とダイエットは先の本でセットになったものの、
「骨盤がおかしくなると、体が大変なことになる」というような
考え方がどこから来たのかどうもはっきりしない。

この20年、30年の間に何かのブームで変わったのではなく、
意外ともっと以前から日本人の共通認識として受け継がれていたのかもしれません。

そして「骨盤ダイエット」という言葉が市民権を得るのは、まだまだ先のことでございまして。

続きは次回「成長~成熟編」の講釈にて。

2012年1月21日土曜日

ダイエットについて(骨盤枕)

昨日はTV番組で「骨盤枕」なるダイエット法が紹介されたようで、
結構話題になっているようですね。

ところで日本人女性は「痩せている人も痩せたい願望がある」ということをご存知でしょうか。

『女子大学生の体型と痩せ願望』(→リンク)という論文によれば、
240人を痩せ、普通、肥満に分類したところ、そのうちわけは、
痩せ群40人、普通群184人、肥満群16人。
痩せ群40人のうち、13人(32.5%)
普通群184人のうち、170人(92.4%)が痩せたいと思っています。
しかし健康を考えた時に「痩せる」ということは、全ての人にとって良い事なのでしょうか。
痩せてしまった事でなんらかの健康障害が出るかもしれません。

昨日の番組は見ていないので、ネットで調べてみると

「普通の枕ではなくまず専用の枕を作ります。バスタオル2枚を重ねくるくる巻いて、ビニールひもでしばって円筒状の枕を作れば完成!これを一日5分腰の下に敷くだけです。骨盤の歪みがとれて、代謝がよくなり太りにくい体質になります。」

という実に簡単なもの。すぐに浮かぶ疑問はこちら。
「バスタオルの硬さや厚みによっては、全く違うものができるけどよいのか」
「そもそもみんな身長や体型が違うのにそれに合わせなくていいのか」
「腰といっても範囲は広いが、『腰の下』と言った場合、
人によって枕が当たる位置が違ってくるが厳密にやらなくていいのか」

人によって、やっていることそのものに違いが出る場合、再現性は低くなります。
厳密にやらなくても同じ効果があらわれることはありますが、
これはひょっとすると「スタイリー(古い!)やぶらさがり健康器で痩せる」的なものかも。

体を反らせることで、一瞬ウェスト周りがすっきり、計ってみてびっくり、
それがモチベーションになって、ダイエットに精がでる。
というタイプのものなのかもしれません。

まあ他にも科学的な見方をすれば、つっこみどころは満載ですが、
ここはあえて「骨盤枕で本当に痩せる!」という前提で話をしたいと思います。

ダイエット記事などでよく挙げられる痩せる方法は、
「食事制限」「運動によるエネルギー消費」「代謝をよくする」です。
この中で言葉が独り歩きして眉唾ものなのが「代謝をよくする」。
基礎代謝を上げて、食べても太らない体質に!なんてよくやってますが、
ここでは「骨盤枕」が効能として謳っている通りに、
代謝がよくなり、痩せて太らない体質になったとします。

「代謝がよくなって、食べても太らない」、やったあ万々歳!

ちょっと待ってください。
「食べても太らない」、それは本当に理想的な状態といえるのでしょうか。
以前と比べて体の調子はどうなのでしょうか。
そもそも以前の状態が本当に「代謝がよくない」状態だったのでしょうか。
「代謝が良くなった」のではなくて、体の働きが狂って、
「栄養をキチンと吸収して、体内にとどめる事ができない状態」になったのかもしれません。

「食べても太らない(太れない)」、あるいは「痩せる」ということが、人にとって
本当に正しい健康状態なのかという見地が完全に抜け落ちています。

私は今までに「食べられない」あるいは「食べても太れない方が、
体調不良で苦しんでいるのを随分と見てきています。
周囲の人からかけられる、
少食でいいね!」とか「太らないからうらやましい」
という言葉に傷つく人も少なくありません。
本人は苦しんでいるわけですから…。

つまるところ、不特定多数の人に対して「これで痩せる!」と
オススメするってことは、
たとえ事実でも、「後は野となれ、山となれ」ということです。
病気になろうが知ったことじゃあない。

もちろん、健康面も含めて痩せた方がよい人に対して
キチンと指導を行っているのなら話は別です。

「食べても太らない体になりたい」という考え方は裏を返せば、
「食欲は抑えられないが、きれいな外見になりたい」ということ。
そういう人の心を見透かして、「これで痩せる!」なんてやって
業績を上げている会社もあるかもしれませんよ。

本当はそんな自分の心を見つめ直すところから始めなきゃあいけないんですが…。
まあ困ったもんです。
関連記事 : 「骨盤ダイエットはいつから」(黎明編)(成長~成熟編)(解析編)