2012年5月22日火曜日

(続)30年目の「大工調べ」

前回の「30年目の大工調べ」の続きでございます。

実は小学5年生の頃、この「大工調べ」を人前でやった時、
啖呵に入る直前で絶句したことがあります。
この日のことは今でもはっきりと覚えています。

それは自宅の2階で、数人の知らない方を含む大人の前でやった時のことでした。

その中に、柔和な表情をしているとても穏やかな方がいらっしゃって、
ニコニコと私の落語を聞いてくださっていました。
私はその方が視線に入る度にうれしくなっていました。

途中までは実に順調でした。ところが、
「いらねえやい!」という啖呵の最初のセリフが言えない。
セリフは一字一句覚えているはずなのに、言葉が詰まって出てこない。
兄が近くに寄ってきて、セリフを小声で教えてくれる。セリフはわかってる。
でも顔を真っ赤にして、青筋立てても、口から空気が漏れるだけで何にも言えない。

「もういいよ」誰かが言ってくれました。
ふうっと、やっとまともに呼吸。こんなことは初めてでした。

気分が落ち着いてから「最後までなんでやれなかったのかなあ」
自問自答したのを覚えています。いくら考えても理由はわかりません。
それからというもの、モヤモヤが晴れず、周りにも制止されるようになり、
ついには落語自体を人前であまりやらなくなっていきました。

30年経った今は絶句した理由がわかります。

その頃自分で演じていて感じる「啖呵」の気持ちよさには、
「人前で悪態をつく快感」のようなものが含まれていました。
そんなものを、その日初めて会った、目の前の穏やかな人に向ける事が
不意に恐ろしくなったんだと思います。それで絶句してしまった。

実際に啖呵というやつは、
いくらキチンとした江戸弁でも、演者の気が入ってしまって、
本気で怒っているようだと、聞き苦しくなります。
啖呵に振り回されない感情の制御が、演者には求められます。

まあ、全然制御不能の人や、落語を通して「人間の悪徳を見せる」
なんて開き直っちゃう落語家もいたりして…、いやはや。

江戸前の落語は「淡々と演ずるべき」という大前提があるのですが、
つまるところ、スーッとする、気持ちの良い啖呵を切るには、
「言葉をきちんと制御する技法」
「感情を制御できる演者の了見」が大事なのだと思います。

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