2012年5月28日月曜日

「中国化する日本」で読み解く「大工調べ」

本日は、書評とそれを読んでの落語「大工調べ」への考察。結構な長文です。

先日(2ヶ月前だけど)、「日本のジレンマ」という
討論番組を見ているとき、ピクッときました。
「ん?こんなこと言ってる人今までいただろうか」

日本人の常識や行動原理の背景を冷静にみつめる歴史家の言葉に
「ああ、確かにそこから始めなきゃどうしようもない、
とにかくこの人の話を聞いておかないと」
となりまして、取り寄せましたのがこちらの本。














「中国化する日本」 與那覇 潤

この本が明示してくれるのは、今行き詰っているように見える日本社会で、
「これからなにができるか」という発想に到るための「どうしてこうなった」

ちなみに「中国化」と言っても「日本が中国に侵略される」とか
「中国万歳」みたいな話ではございません。

簡単に説明すると、いや簡単に説明できないんですが、
「中国化」=「自由主義で自己責任の社会」
そしてその対極としてあるのが、
「江戸時代化」=「封建制で自由はないが家職で食べていける社会」

歴史上、日本がどの時代にどのような社会を選択したのか。
それによってどう成功し、また失敗したのか。
この本は「中国化」と「江戸時代化」という二つの概念を用いて、
日本の「〇〇時代」の真の姿を実に明快な理路で解き明かし、
現代に連続する形で「日本史」を解説してくれます。

今まで日本史関係は歴史小説しか読んでない身としては、
「そういう視点があったのかぁ」と驚いた後で、勉強不足を恥じたりしまして。

しかもこの本に述べられていることは、著者一人の独創ではなく、
「プロの間では定説になりつつある学問成果」というのだから、さらに驚き。
私がこの本に書かれていることを耳にしていないのは、不勉強もあるのでしょうが
このような「学問成果」が現代の一般人にきちんと届くような形で
今まで提示される事がなかったからではないのでしょうか。

「古典落語」を現代人向けにわかりやすくしようと
妙な付け足しをする事で噺が破綻することがありますが、
こういう新作は大歓迎ですね。…落語と一緒にしちゃいけないか。

そして歴史の背景にある行動原理や社会構造を
現代につながる形で、現代の言葉に置換して理解する事で、
自分の規範や常識が「そこから来てたのか~」と身につまされたり。

「中国化」と「江戸化」は歴史認識を改めるキーワードでもあり、
それは同時に現代を正しく理解するキーワードとしても機能している。

この二つのキーワードで全てが説明できるわけではありませんが、
いや全て説明できたらおかしいんですが、
無自覚に受け継いでいる「行動原理」や「社会構造」に
名前を与えて「意識化」しなければ、間違いは繰り返されます。

日本人が現在の行き詰った社会と対峙するためには、
「中国化」「江戸化」は実に重要な視点であると思われます。

私なんかは落語の筋立てに対しても新たな視点が持てました。
例えば今月の落語講座の演目「大工調べ」

『家賃を滞納したために道具箱を大家に持っていかれた
ちょっとぼんやりしている大工の与太郎。
仕事に出て来ない与太郎を案じて長屋を訪れたのは大工の棟梁、政五郎。
今は持ち合わせがないけれど、自分に免じて道具箱を返してくれと
大家に頼みこむのですが、言葉の行き違いから争いとなります。
「道具箱は渡せない、家賃全額を持ってくれば返してやる」
と、へそを曲げた大家は棟梁の「面子をかけた」要請をかたくなに拒絶します。
爆発した棟梁は啖呵を切って奉行所へ。果たしてお奉行様のお裁きは…』

という、落語の中では「政談もの」と呼ばれるジャンルなのですが、

「江戸化」の代表的性格を持つ棟梁と、
「中国化」的性格の大家の争いと見れば、
対立構造が実にわかりやすく理解できます。

一方は「困った時はお互い様」の家職を継いだ村社会の代表、
かたや、元はよそ者で成り上がりの経済自由主義者。

大家は元はこの本にも書かれている、農村の次男三男といった地方出身者、
食い扶持を稼ぐために家から出されて都会で働く事を余儀なくされた、
いわゆる「野暮」な田舎者だったかもしれません。

江戸という都会で安価な労働力は「フリーター」として需要はありましたが、
家職で暮らす生まれつき食い扶持を持ってる「江戸っ子」にしてみれば、
氏素性のわからない、金を稼ぐ(食べる)ために色んな事をする蔑むべき存在。
場合によっては自分よりいい暮らしをすることもあったりと面白くない。

「おれはあそこに顔を出したくなかったんだよ」と棟梁。

落語には田舎者を蔑むような表現が往々にして見られますが、
「江戸っ子」という強い身内意識の形成には、地方出身者に対して、
地縁という「絆」で既得権益を保持して対抗しようという
排他的な側面もあったのかもしれません。

でもこれ現代でもあてはまりますね、日本人の外国人労働者に対する反応とか…。

しかし、帰る家の無いよそ者は体を壊したら、たいがいは「野垂れ死」。
「かわいそうだからなんとかしてやりましょ」というセーフティネットしかない江戸時代。
「人情」が機能するのは「身内に対してだけ」という現実が、
この本でも挙げているような、田舎から出て来た奉公人の
非常に高い死亡率にもつながるわけで。

この大家がそんな「よそ者」から這い上がった存在だとすれば…

「私が頭を下げているんだから、渡してくれたっていいじゃないですか…」
と頭を下げる事でうやむやにしようとする棟梁の言い分は、
かつて生きるため、わずかな銭を稼ぐのに頭をペコペコ下げて、
低賃金でどんなことでもやった大家にしてみれば許し難いのは当然でして。

棟梁にしてみれば、身内意識という情を持たないような奴は許せない。
「てめえなんざ、どこの馬の骨だか、牛の骨だかわからねえ…」などと
「よそ者である」ことや「成り上がった」事実を、絶対的な悪と認定して、
啖呵の中で並べ立てます。やっぱり結構「狭量」な江戸っ子。

実際のところ大家の主張は筋が通っているのですが、
法より人情という社会では、大家が悪役になってしまいます。
もっとも世間のルールが理解できない与太郎にルールを適用する大家は、
都合の悪い人間は排除、という了見の狭い人であることは確かです。
演者によって大家を極悪人に描くかどうかが変わるのですが、
その辺りで演者の了見もわかったりします。

そして解決できない「江戸化」と「中国化」の対立は、
御奉行様の絶対的徳治に丸投げして、折り合いをつけてもらうという。

「道具箱を二十日余りも留め置かれ、老母一人養い難し」
与太郎の母親を出した時点で勝負はついている。

本当は起訴権も裁判権も持っている奉行所が、法に基づかないで、
恣意的になりかねない「徳」で裁いたりしたら危険極まりないんですけどね。

ちなみに結末はというと、富の再分配
…我々って現実の世界でもこういう物語を求めているような気がしません?
最近の新作落語を見てると、与太郎のような社会にうまく適合できない人間を
吊るし上げるストーリーのほうが腑に落ちる人もいるようですが…。

この落語では「与太郎」を愛すべき人物に描くことで、
他の登場人物の性格を際立たせることに成功しています。
「江戸化」にも「中国化」にも全くブレない与太郎の存在によって、
観客は二人の争いが泥仕合に陥っていることを理解出来ます。

じゃあ「与太郎化」…というわけにもいきませんが、
メンツや金に振り回され、結果的に自分を追い詰める周囲をよそに、
何があっても与太郎は与太郎であることをやめません。
悩み苦しんだりはせず、いつも暢気。それでいて憎めないときている。
私たちは与太郎の「心のゆとり」に学ぶべき所があるのではないのでしょうか。

講釈の「秩序」は一つですが、落語では複数形で描かれます。
道徳的な講釈へのアンチテーゼという側面も持つ落語は、
「とにかく江戸時代は人情があってよかった」みたいな単純な話にはなりにくい。

また落語という芸は、演者を通して物語が表現されることで、
作者すら意図しない「視点」を観客に示唆してくれることもあります。

そして「瞬間的大笑い」じゃなくて「クスッ」とくるから後で考えて、
色々と「ジワッ」とくる。やっぱり古典落語は後世に残したい「物語の表現」ですね。

とまあこんな具合に落語の解釈にも新たな視点をもたらす、
「中国化する日本」は杉田整体院の隣のBooks and crafts SARANAにも
入荷していますから、学生さんも、歴女も、右や左のおあにいさんも、
是非手にとって読んでみてください。とまあ宣伝なぞもしたりして。

「大工調べ」はネットで検索するといくつかの動画が見つかりますが、














やっぱり↑コチラの師匠がおすすめです。

2 件のコメント:

  1. はじめまして。「大工調べ」を私も好きでして、この噺についてどなたか語っている方はいらっしゃらないかと検索してみたところ、こちらのブログに辿りついた次第でございます。私は紹介された著書を読んでおりませんが、「中国化」と「江戸化」という視点からのこの噺に対しての解説をおもしろく拝読しました。特に、噺のなかの棟梁には「田舎者のくせに」という意識があるという所には、確かに言われてみるとそうだな、とハッとさせられました。

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    1. コメントありがとうございます。
      下手に噺の分析なんぞしますと「野暮だね」とお叱りを受けることもあるのですが、楽しく読んで頂けたようでうれしい限りです。
      「中国化」と「江戸化」で捉えなおすと、「なんで棟梁と大家はこうまで折り合えないのか?」も、自分の中では腑に落ちまして。
      威勢のいい啖呵というパフォーマンスだけに目が行きがちな話ですが、人物造形とその対比にはとても深いものがあり、だから演者によって大きく変わる噺なのですが、その辺りも含めて好きな噺です。

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