2012年7月29日日曜日

8月5日は瀬戸市にて落語会を行います

来週の日曜日8月5日(日)14:00~
瀬戸市の花屋さん「はーばす」(ホームページ)にて
私「背中家腰楽」の落語会が開催されます。

この一年岡崎市を中心に三河地方のみで
やって参りましたが、今回はちょいと遠征でございます。
以前に落語を見てくださった方からお声をかけて
頂き、今回の運びとなりました。

つきましては、当日「杉田整体院」を
11:30~17:00の間、お休みとさせて頂きます。
(当該時間でも予約の電話は受け付けております。)

2012年7月12日木曜日

7月の落語講座のお知らせ

来週7月18日(水)は月に一度のお楽しみ、
背中家腰楽の落語講座がございます。

今回のお話は古典落語なんですが、なんと元ネタは西洋の物語。
あるコワーイ「神様」が登場します。果たしてどんな神様が出て参りますか…

午前中はこちらにて、

場所  暮らしの学校

時間  7月18日(水) 10:30~11:30

電話  0120-511-533

WEB  暮らしの学校(講座ページ)


夜は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて


場所  喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩分)

日時  7月18日(水) 20:00より 

電話  050-3598-6745

WEB  http://ameblo.jp/slothcoffee/

乞うご期待!

2012年7月10日火曜日

唐茄子屋政談の結末について

前回からの続きものでございます。

このお話の終盤の演じ方は落語家によって変わることがあります。

『貧乏長屋で出会ったおかみさん、
元武士で今は行商をしている夫からの送金が途絶え、
必死に働いたが体を壊し、二人の子供に三日も何も食べさせていないという。
あまりの困窮ぶりを目の当たりにした若旦那は
「何かあったかいもんでも食べてくださいな」と
商売の売り上げをそっくり渡して帰ってきます。』

『売り上げをやってしまったという若旦那を疑う叔父さんは、
その話がウソかホントか確かめようじゃねえかと、
貧乏長屋のおかみさんを訪ねると、
なんとおかみさんは首をくくってしまったという。』

『おかみさんが金を貰うわけにはいかないと、
若旦那を追っかけて出たところで大家にバッタリ出会ってしまい、
家賃がたまっていることを理由に、その金を取り上げられてしまったという。
その日の夕方隣人が訪ねてみると、おかみさんが梁から…
そして今医者に手当てをしてもらっているところだという。
その話を聞いた若旦那は一目散に大家のところへ…』

というくだりなのですが、
この「おかみさん」が助かる場合と助からない場合があります。
ちなみに志ん朝師匠は「助かるバージョン」、もちろん私もそうです。

客を泣かせるために
おかみさんに死んでもらうという人もいますが、
それは物語を壊すだけだと思うんです。


なぜなら、おかみさんの自殺(未遂)の原因は実は若旦那にあるからです。

前回「情けはひとのためならず」という話をしました。
これと似た言葉で「恩送り」という言葉があります。
立場や身分の違いから生きてる間に「恩返し」ができないこともある。
だから受けた恩は「返す」のではなく、他の誰かに「送る」と。

若旦那は、気のいい下町の住人に恩を受け、
「ああ親切なひとだなあ」で済む町人。恩をただで送られてもOK。

しかしおかみさんは武士の妻。
ただ金を恵んでもらうことは大変な「恥」なのです。
だから必死で金を返そうとした。
そしてその金を大家に取られた事で返せなくなってしまった。
そもそも「恥」という概念に縛られ、子供が飢えても「助けて」と言えなかったおかみさん。
さらに恥を与えて追い詰めたのは、他でもない若旦那なんです。

まあそれ以外の理由もあるでしょうが、これは原因にはなっている。

もちろん大家は因業に違いないし責任はある。
しかし若旦那がタダで金をやらなければこんなことにはならなかった。
『井戸の茶碗』じゃないけど、湯のみでも代わりに貰っとけばよかったんです。
若旦那は知らなかったとはいえ、
相手の立場を無視した「情けが仇」となったんです。

もしおかみさんが死んでしまったら…、
優しい若旦那は必ず自分がしたことに気が付いて、残された子供の面倒を見、
それでも背負った十字架の重さに生涯苦しんだだろうな。
私はそう思ってしまいます。

こんな余韻を観客に味あわせるなんて私は御免蒙ります。

そして「現実はもっと非情だ」(この物語の社会背景は現代よりはるかに非情ですが)
と、おかみさんを死なせるのであれば、
物語の筋立てを再構成したほうがいいと思うんです。今のままではいけない。

お人よしで呑気でどこか憎めない若旦那、
厳しいようで実は思いやりのある叔父さん、
見ず知らずの若旦那を助けてくれる気のいい下町の住人、
おかみさんの困窮を知りつつ、自分達のことが精一杯で助けられない長屋の人達。

こんな登場人物が巡りあって、その結果が「おかみさんの死」だとすれば、

若旦那の呑気さも、叔父さんの温情も、下町住人の義侠も
一体何だったんだとむなしさと共に消し飛んでしまい、
若旦那の勘当がとけたところで、そんなことは
もうどうでもよくなってしまいます。
文脈を無視した物語は見る者を疲れさせるだけではないでしょうか。

厳しい現実が話の背景にあるけれど、その中で
人の巡り会わせを信じさせてくれるような物語。

そんな物語が適当な改変によって歪められてしまう事が
(明治の速記本とかみるとおかみさん死なないんです)
私にとっての「非情な現実」だったりします。

2012年7月5日木曜日

「情けは人の為ならず」唐茄子屋政談

先日は落語講座へいっぱいのお運びありがとうございました。

今回の演目は「唐茄子屋政談(とうなすやせいだん)」
唐茄子とは「かぼちゃ」のことです。
政談は大岡政談由来の話。「奉行によるお裁き」のシーンがあるのが常ですが、
現在この話のお裁きシーンは消失し、内容も不明。

『吉原での遊びが過ぎて、家を勘当された若旦那。
すぐ行き所がなくなってしまい、絶望して川へ身をなげようとしたところを
偶然通りかかった実の叔父さんに助けられます。
明くる日から唐茄子を売って歩くことになるのですが、
肉体労働などしたことがない若旦那…』

『あまりの荷の重さに耐えかねて転んでしまった若旦那ですが、
見ず知らず気のいい下町の住人に助けられ、
唐茄子をすっかり売りさばいてもらいます。
二つ残った唐茄子をかついで、貧乏長屋へ売りに入っていくと
どことなく品のあるおかみさんに呼び止められ…』

場面転換が多い話ですが、それぞれのシーンに見所があり、
また登場人物の多彩なキャラクターが、物語の世界を豊かなものにしています。

この話の演じ方には、途中で話を切って終えてしまうパターンもありますが、
もちろんフルバージョンでやらせて頂きました。

今回は落語そのものは、現代ギャグを入れない「本寸法の落語」のまま
初めて聞かれる方にも楽しんでもらえるよう、マクラ(話の導入)の前に、
「プレゼンテーション」をさせて頂きました。

なかなか好評を博しまして、これからも継続して参ります。
落語に興味はあるけど敷居がちょっと高い、と思ってらっしゃる方は是非。

この噺は最後、「情けは人のためならず」と言って締めくくります。

この言葉、
「人に情けをかけると、かえってその人のためにならない」
という誤った解釈が広がったこともありました。
高度成長期に、自己責任論の台頭により出てきた誤用だと
する説もありますが、どうもあてにはなりません。

正しい意味は、人のためならず=自分のためで、
「人に情けをかけると、巡り巡って自分に返ってくる」


私はこの言葉が子どもの頃は嫌いでした。
自分に返ってくるから情けをかけるとは、
なんて利己的な言葉なんだろう、「卑しいなあ」って思ってました。


しかしそれも間違った解釈だったんじゃないか、と気が付いた。


「人にするんじゃあない、自分にするんだ」
他の落語でも、第三者が「情をかける人」に対して、
言い聞かせるような場面があります。
その時の言い方や口調に気付いて、はっとなった。

「情けをかけられた」側は、そのことが負い目となって生涯苦しむこともある。

「情けをかけた」側も、「俺がしてやった」と傲慢になったりすることもある。
またそうでなくても、情けをかけた相手が負い目や引け目に思っていることに
気が付けば、いたたまれない気持ちにもなる。
「人のためにやってるんだ!」で周りが見えなくなることもある。
人の為と書いて「偽」と読みます。ハイ。

しかしそういう気持ちに振り回されるのは、人間なら当たり前のこと。
でもそれでは世の中を生きづらくなるだけで、いいことなんかない。

「かけた情けが仇となる」という言葉がありますが、
そういう「情け」に付随する様々な感情に振り回されないように、
「巡り巡って関係のないところから自分へ返ってくる」
と考えた方が、健全な社会関係、「付き合い」を保つ事ができる。


「情けをかけた(かけられた)」という意識の獲得は全ての人のためにならない。
自分のためにする、と考えた方が健全である。
この言葉はそう説いているのではないのでしょうか。

これは私が落語の中で使われる様子から感じたことですので、
「学問的」には間違っているかもしれません。

しかし「寄席は浮世学問の場」と申します。
澁澤榮一翁は「落語は世態人情の機微を穿つもの」であると。
だとすれば、あながちこの解釈も間違ってはいないと思うんです。

まあこういうことをいちいち言うのは、「野暮な」物言いかもしれませんけれど。

でもこれだから、やっぱり古典落語は侮れない。
「現代の価値観に合わせる」、なんてことを
無自覚にやったりすると落語の「語」が死にかねない。
ということを改めて確認しました。

「唐茄子屋政談」の結末部分は落語家によって演じ方が変わるのですが、
それは次回の講釈、
「おかみさんを何故死なせてはいけないのか」にて。