2012年7月5日木曜日

「情けは人の為ならず」唐茄子屋政談

先日は落語講座へいっぱいのお運びありがとうございました。

今回の演目は「唐茄子屋政談(とうなすやせいだん)」
唐茄子とは「かぼちゃ」のことです。
政談は大岡政談由来の話。「奉行によるお裁き」のシーンがあるのが常ですが、
現在この話のお裁きシーンは消失し、内容も不明。

『吉原での遊びが過ぎて、家を勘当された若旦那。
すぐ行き所がなくなってしまい、絶望して川へ身をなげようとしたところを
偶然通りかかった実の叔父さんに助けられます。
明くる日から唐茄子を売って歩くことになるのですが、
肉体労働などしたことがない若旦那…』

『あまりの荷の重さに耐えかねて転んでしまった若旦那ですが、
見ず知らず気のいい下町の住人に助けられ、
唐茄子をすっかり売りさばいてもらいます。
二つ残った唐茄子をかついで、貧乏長屋へ売りに入っていくと
どことなく品のあるおかみさんに呼び止められ…』

場面転換が多い話ですが、それぞれのシーンに見所があり、
また登場人物の多彩なキャラクターが、物語の世界を豊かなものにしています。

この話の演じ方には、途中で話を切って終えてしまうパターンもありますが、
もちろんフルバージョンでやらせて頂きました。

今回は落語そのものは、現代ギャグを入れない「本寸法の落語」のまま
初めて聞かれる方にも楽しんでもらえるよう、マクラ(話の導入)の前に、
「プレゼンテーション」をさせて頂きました。

なかなか好評を博しまして、これからも継続して参ります。
落語に興味はあるけど敷居がちょっと高い、と思ってらっしゃる方は是非。

この噺は最後、「情けは人のためならず」と言って締めくくります。

この言葉、
「人に情けをかけると、かえってその人のためにならない」
という誤った解釈が広がったこともありました。
高度成長期に、自己責任論の台頭により出てきた誤用だと
する説もありますが、どうもあてにはなりません。

正しい意味は、人のためならず=自分のためで、
「人に情けをかけると、巡り巡って自分に返ってくる」


私はこの言葉が子どもの頃は嫌いでした。
自分に返ってくるから情けをかけるとは、
なんて利己的な言葉なんだろう、「卑しいなあ」って思ってました。


しかしそれも間違った解釈だったんじゃないか、と気が付いた。


「人にするんじゃあない、自分にするんだ」
他の落語でも、第三者が「情をかける人」に対して、
言い聞かせるような場面があります。
その時の言い方や口調に気付いて、はっとなった。

「情けをかけられた」側は、そのことが負い目となって生涯苦しむこともある。

「情けをかけた」側も、「俺がしてやった」と傲慢になったりすることもある。
またそうでなくても、情けをかけた相手が負い目や引け目に思っていることに
気が付けば、いたたまれない気持ちにもなる。
「人のためにやってるんだ!」で周りが見えなくなることもある。
人の為と書いて「偽」と読みます。ハイ。

しかしそういう気持ちに振り回されるのは、人間なら当たり前のこと。
でもそれでは世の中を生きづらくなるだけで、いいことなんかない。

「かけた情けが仇となる」という言葉がありますが、
そういう「情け」に付随する様々な感情に振り回されないように、
「巡り巡って関係のないところから自分へ返ってくる」
と考えた方が、健全な社会関係、「付き合い」を保つ事ができる。


「情けをかけた(かけられた)」という意識の獲得は全ての人のためにならない。
自分のためにする、と考えた方が健全である。
この言葉はそう説いているのではないのでしょうか。

これは私が落語の中で使われる様子から感じたことですので、
「学問的」には間違っているかもしれません。

しかし「寄席は浮世学問の場」と申します。
澁澤榮一翁は「落語は世態人情の機微を穿つもの」であると。
だとすれば、あながちこの解釈も間違ってはいないと思うんです。

まあこういうことをいちいち言うのは、「野暮な」物言いかもしれませんけれど。

でもこれだから、やっぱり古典落語は侮れない。
「現代の価値観に合わせる」、なんてことを
無自覚にやったりすると落語の「語」が死にかねない。
ということを改めて確認しました。

「唐茄子屋政談」の結末部分は落語家によって演じ方が変わるのですが、
それは次回の講釈、
「おかみさんを何故死なせてはいけないのか」にて。

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