2014年7月8日火曜日

7月の落語講座のお知らせ

7月16日(水)、7月17日(木)は
背中家腰楽の落語講座がございます。

先月のお話は「王子の狐」でした。
「きつね、たぬきは人を化かす」そんな言葉が生きていた時代の、たいへんに暢気なお話。
そういえば昔「平成狸合戦ぽんぽこ」なんてアニメもありました。

『狐が若い娘に化けるところを目撃した男。
だまされている振りをして、娘に化けた狐を連れ料亭「扇屋」へ。
さんざん飲み食いした挙句、酒に酔った狐を置きざりにして、
男は先に帰ってしまうのだが…』

このお話は実在した料亭「扇屋」が舞台なのですが、話の中で、
店の看板商品の玉子焼きを始め、料理やサービスを褒めます。

実はこの落語、昔からあった話が幕末から明治にかけて
「扇屋」の宣伝用に作り変えられたものだとも言われています。
CMの要素もある落語があったなんてのも興味深いですね。

今で言えばドラマの中でスポンサーの商品が使用されるのと同じでしょうか。

ちなみに扇屋さんは現在料亭としては営業しておりませんが、
自慢の玉子焼きを販売をしています。

通販もしているお店のホームページのトップには
「落語の王子の狐の舞台でもある老舗の味」
とあります。

150年経った今も謳い文句として宣伝効果は生き続けているとは…
宣伝落語おそるべし。


さて今月は子供が出てくるお話。
落語に出てくるのは一筋縄ではいかない
こまっしゃくれいて、知恵(悪知恵)の働く子供でございまして。

楽しいお話です、ご期待ください。

背中家腰楽の落語講座では
「落語はちょっとむずかしそうで…」という方も、
「あらかた知っているよ」という方も、
よりお楽しみ頂けるように
レジュメ、プレゼンテーション付きの落語をやらせて頂いております。


7月16日(水)はJR岡崎駅より徒歩五分
様々な講座を開催しているこちらで。

場所  暮らしの学校 (JR岡崎駅徒歩5分)

日時  7月16日(水) 10:30~11:30

電話  0120-511-533

WEB  暮らしの学校(講座ページ)


7月17日(木)は、1階は特製自家焙煎コーヒー店、
2階は「ナマケモノ大学」を開催しているコチラにて


場所  喫茶スロース (JR蒲郡駅より徒歩1分)

日時  7月17日(木) 20:00より 

電話  050-3598-6745

WEB  http://ameblo.jp/slothcoffee/

2014年7月4日金曜日

あなたの「わらい」はどう書きますか?

政務費の不正使用疑惑に対する兵庫県議の釈明会見が
この二、三日ネットやテレビを賑わしています。

私のTwitterのTLにも「大変に笑えるもの」として情報が流れて来ました。
中には「痛々しくて見ていられない」という意見もありました。

連れ合いと動画で会見を見てみると…
大の大人がしかも県会議員があられもなく小学生のように
喚きしゃくり上げ、訳のわからない奇声を発していました。

クスリとも笑えません、というよりギョッとしました。
そしてすぐにこの人は医師や専門家による適切な「助け」が
必要な人なんじゃあないかと感じました。

まあ笑う要素があるとすれば、
こういう人が議員さんに選ばれる国に住んでいる、
というところでしょうか。

もちろん「つい笑ってしまう」ということはあります。
そういう人が大半だとは思うんです。

ところが、これ以上ない笑いとして楽しんでいる人もいます。
お笑い芸人が彼の会見を「笑い」として高く評価していたり、
TVではモノマネをしたり、ネットでは早くも二次創作が出回っている様子。

でもですよ、
芸人がああいうキャラクターを思いついてコントをしているわけではないんです。
少なくともあの県議は「見世物」として会見を開いてはいません。

珍しいもの、普通の人ができないことをする人、
つまり世間一般では見られないたぐい稀な人間は「見世物」になれます。
見目麗しいこと、見た目が珍であること、美声、
饒舌な語り口、深みのある人間的な魅力、
見世物としていずれもゼニが取れます。

それが芸人であるならば問題はありません。ゼニを取ればいいんです。
そこには見世物に「なる人」と「見る人」の間に合意がありますから。
ただ彼は芸人でもなければ見世物になることを望んでもいません。

私が中学生の時、ある教師が竹の棒で生徒の頭を
ことあるごとに叩いていました。
一人の子がよく標的にされていました。
その子はじっとしていられない理由のある子でした。
叩かれると普通の子とは違う動きで大きく身をよじり痛がりました。
その教師はゲラゲラと笑っていました。
それを見て笑っている生徒もいました。

私は笑いませんでした。
しかし教師に腹を立てる一方で恐くもなりました。
自分もこういうことでひょっとすると笑ってしまう事あるんじゃないか、
自分の中にもそういう蔑みの成分を含んだ笑いがあるのではないかと。

「反応」だけを見て小馬鹿にして嗤うことをよしとするのならば、
これはいじめにもつながると思うんです。

落語には与太郎という登場人物がいます。
「馬鹿で与太郎」というぐらい間抜けな役回りで、
へまをしたりみんなから馬鹿にされたり。
観客も馬鹿だなあと笑うわけですが、話の中には、
実は与太郎が物事の本質を一番とらえている
価値観が反転するような話もあります。→(中国化する日本で読み解く大工調べ)
こういうとき自分が笑っていたことの中身を自覚させられて
ちょっとコワくなったりします。

確かに自分の「好き」や「笑い」の中身をみつめるのって大変なことかもしれません。
それは自分の中にある醜い欲望や蔑む心と向き合うことでもあるのですから。
でもやっぱりそこから始めるしかないんじゃあないのでしょうか。

はずみで笑ってしまう事はあります。
でもそのあとで、ほんの少しでもよいので、
その「笑い」は自分に向けられた時も「笑い」でいられるのか
を考えてみて欲しいんです。

わらいは楽しい。
わらいはコワい。
だから大事なんです。